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東京地方裁判所 昭和41年(刑わ)2502号 判決

被告人 広川公成こと廣川道夫

昭五・二・一〇生 不動産業

卜部健

昭七・四・一生 飲食店経営

主文

1  被告人廣川道夫は無罪。

2  被告人卜部健を懲役一年に処する。

ただし、同被告人に対し、本裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。

訴訟費用のうち、証人河村八郎に支給した分(ただし、第六五回公判期日出頭分に限る。)の五分の一を同被告人の負担とする。

本件公訴事実中、被告人卜部健が単独でまたは被告人廣川道夫と共謀して別紙買戻条件付土地販売契約(〈特〉契約)一覧表その一、その二、その四、その五、その六およびその七記載の各契約者から土地売買契約による代金という名目で右各表記載のとおりそれぞれ現金、小切手等の交付を受けてこれを騙取したとの点については、被告人卜部健は無罪。

理由

第一部  有罪部分の理由

(犯行に至る経過)

被告人卜部健は、昭和四〇年六月ごろ、当時東京都渋谷区中通り三丁目五〇番地所在の名取ビル内に本店を置き、不動産の売買や仲介等を業としていた明治不動産株式会社の専務取締役または代表取締役社長として、実質的に一人でその経営にあたつていた者である。

ところで、同社においては同年一月ごろから経営状態が悪化したため、資金調達の手段として、多くの顧客との間で客にいつたん土地を買受けさせ一定期間後に当初の代金額に年約三割の割合による利益を付した金額で当該土地を買戻すという趣旨の買戻条件付土地売買契約を締結するという営業を行なつたことがあり、その後同年三月末ごろにはこの種営業を打切つていたところ、同社京橋支店長河村八郎においては、同年六月初ごろかねてより同支店と取引のあつた黒川臣が右のような買戻条件付売買契約によるならば再度取引に応ずる意思のあることを知つたため、本社に対し特例としてその契約締結の許可を求めて来た。

(罪となるべき事実)

そのため、被告人卜部は、右昭和四〇年六月初当時においては、同社が財政的にも営業的にも完全に崩壊寸前であり、日々手形の書き替えに追われ、明日にも倒産に至るべきことが確実に予期される状況にあつて、右のような買戻条件を付してもこれを履行できる見込などほとんど全くなかつたにもかかわらず、その際どんなに少額の金員でも入手したかつた折から、客においては買戻条件の履行されないことを知れば契約締結に応じないであろうことを十分認識しながらあえて右事情を秘し、買戻条件付土地売買契約による代金という名目で金員の交付を受けることを企て、右河村八郎に対しその申出どおり前記黒川臣との間で契約を締結することを許可し、これにより、別紙買戻条件付土地販売契約(〈特〉契約)一覧表その三記載のとおり、情を知らない右河村八郎および右京橋支店営業部員宅見力をして、同月六日ごろ同都杉並区荻窪一丁目三番地黒川清雄方において、右黒川臣に対し、同都八丈島八丈町大字三根(東明ランド分譲地)所在の山林を買うという形で金員を投資すれば一年後に利益率年三割の割合による利益を付した金額で同社が右土地を買戻して、右投資した元本とその利に相当する金員を必ず支払うという趣旨の虚偽の事実を申し向けさせ、右黒川臣をしてその旨誤信させて、右山林を代金一、〇〇〇、〇〇〇円で同人が買い受け約一年後にはこれを同社において買戻代金一、三〇〇、〇〇〇円で買戻すとの契約を締結させ、よつて、前記河村八郎らを介し、同日ごろおよび同月九日ごろの二回に分けて、いずれも右黒川清雄方において、右黒川臣から右土地売買契約の代金という名目で現金一〇〇、〇〇〇円および小切手(黒川臣振出、株式会社第一銀行荻窪支店支払、額面九〇〇、〇〇〇円)一通の交付を受けてこれを騙取した。

(証拠の標目)(略)

(法令の適用)

判示所為 刑法二四六条一項

主刑   懲役一年

執行猶予 同法二五条一項(二年間猶予)

訴訟費用 刑事訴訟法一八一条一項本文

第二部  無罪部分の理由(有罪部分に関する証拠説明を含む。)

(無罪部分の公訴事実の要旨)

被告人廣川道夫は、昭和三九年一二月一四日から昭和四〇年六月七日までの間、東京都渋谷区中通り三丁目五〇番地所在の名取ビル内に本店を置き、不動産の売買や仲介等を業としていた明治不動産株式会社の代表取締役社長であつた者、被告人卜部健は、昭和三九年一二月一四日から昭和四〇年六月七日までは同社の専務取締役、同月八日から同年七月三〇日までは同じく代表取締役社長であつた者であるが、昭和四〇年一月初ごろから同社の経営状態が悪化し、手形決済資金ないし会社運転資金が枯渇して、そのまま放置すれば会社倒産が必至の状態となつたため、その一時的な延命を図るため

第一、被告人両名は、共謀のうえ、真実は約定どおり期限に元本および利益を付した金員を支払つて買戻しを実行しうる確実な見込みも能力もなかつたのにもかかわらず、同社の右のような財政状態を秘し、買戻条件付土地売買契約と称する不動産投資契約に仮託して顧客らから金員を騙取しようと企て、別紙買戻条件付土地販売契約(〈特〉契約)一覧表(以下「〈特〉契約一覧表」という。)その一、その二、その四、その五およびその六記載のとおり、情を知らない同表担当支店(支店長)欄および担当外務員欄記載の各支店長および社員らを介し、昭和四〇年一月二一日ごろから同年五月二六日ごろまでの間前後五七回にわたり、同表契約日欄記載の各日ごろ、同都台東区浅草日本堤三丁目一一番地田村寅吉方ほか同表契約を締結した場所欄記載の場所五〇ヶ所において、田村トラほか同表契約者欄記載の顧客五五名に対し、東京都八丈島所在の土地等を買うという形で金員を投資すれば、二ヶ月ないし約一年の間で定める一定の期日に利益率年約三割の割合による利益を付した金額で右明治不動産株式会社が当該土地を買戻して、右投資した元本とその利に相当する金員を必らず支払うなどと虚言を申し向け、同人らをしてその旨誤信させて、同表販売契約の内容欄記載のように同島八丈町大字三根字立津ほか一五ヶ所所在の山林または原野計一四六、一六〇坪を代金合計一四八、五二四、五九三円で同人らが買受け、これを右会社において同表買戻契約の内容欄記載のように二ヶ月後ないし約一三ヶ月後の各期日に買戻代金合計一八三、六四〇、五五八円(ただし、実際に支払いを要するのは一七五、六四〇、五五八円)で買戻すとの契約をそれぞれ締結させ、よつて、同表代金受領日欄記載の各日ごろに前記田村寅吉方ほか同表代金を受領した場所欄記載の場所五六ヶ所において、前記田村トラらから右各土地売買契約による代金という名目で現金合計九六、四六四、四〇七円、小切手二一通(額面合計三二、三一九、一八三円)、約束手形一通(額面一、二〇〇、〇〇〇円)、土地所有権移転仮登記の登記済証一通(評価額一、四〇〇、〇〇〇円相当)および投資信託証券預り証一通(時価八、七四〇、〇三一円相当)の各交付を受けて、それぞれこれらを騙取し、

第二、被告人卜部は、右第一記載と同様の手段方法により不動産投資契約に仮託して顧客らから金員を騙取しようと企て、別紙〈特〉契約一覧表その七記載のとおり、情を知らない野地弘一横浜支店長らを介し、同年六月一八日ごろ、同都北多摩郡狛江町二〇八番地松本延夫方において、松本延夫に対し、右第一記載と同様の投資した元本とその利に相当する金員を約定の期日に必らず支払うなどと虚言を申し向け、同人をしてその旨誤信させて、同表販売契約の内容欄記載のように北海道千歳市駒里一、四八一番地所在の山林計二、二三一坪を代金一、四〇〇、〇〇〇円で同人が買受け、これを前記会社において同表買戻契約の内容欄記載のように約一二ヶ月後に買戻代金一、九二〇、〇〇〇円で買戻すとの契約をそれぞれ締結させ、よつて、同月二三日ごろ前記松本延夫方において、同人から右土地売買契約の代金という名目で現金合計一、四〇〇、〇〇〇円の交付を受けて、これを騙取したものである。

(争点)

(証拠略)によれば、本件公訴事実(判示有罪と認定した訴因を含む。)のうち、東京都渋谷区中通り三丁目五〇番地所在の名取ビル内に本店を置き、不動産の売買や仲介等を業としていた明治不動産株式会社(以下「東京明治」という。)において、昭和四〇年一月二一日ごろから同年六月二三日ごろまでの間、前後五九回にわたり、〈特〉契約一覧表その一ないしその七記載のとおり、同表担当支店(支店長)欄および担当外務員欄記載の各支店長および社員ら(以下「営業担当者ら」という。)が、同表契約日欄記載の各日ごろ、同都台東区浅草日本堤三丁目一一番地田村寅吉方ほか同表契約を締結した場所欄記載の場所五二ヶ所において、田村トラほか同表契約者欄記載の顧客五七名に対し、同都八丈島所在の土地等を買うという形で金員を投資すれば、二ヶ月ないし約一年の間で定める一定の期日に利益率年約三割の割合による利益を付した金額で東京明治が当該土地を買戻して、右投資した元本とその利に相当する金員を必らず支払うという趣旨の話をして、不動産投資を勧誘し、同人らとの間で、同表販売契約の内容欄記載のように同島八丈町大字三根字立津ほか一六ヶ所所在の山林または原野計一四八、八九一坪を代金合計一五〇、九二四、五九三円で同人らが買受け、これを東京明治において同表買戻契約の内容欄記載のように二ヶ月後ないし約一三ヶ月後の各期日に買戻代金合計一八六、七六〇、五五八円(ただし、実際に支払を要するのは一七八、七六〇、五五八円)で買戻すとの契約(形式的には、右田村トラらを買主とする土地売買契約と同時に当該土地の再売買予約契約または東京明治を買主とする通常の売買契約を結ぶ。)を締結し、同表代金受領日欄記載の各日ごろに前記田村寅吉方ほか同表代金を受領した場所五八ヶ所において、前記田村トラらから右各土地売買契約の代金として現金合計九七、九六四、四〇七円、小切手二二通(額面合計三三、二一九、一八三円)、約束手形一通(額面合計一、二〇〇、〇〇〇円)、土地所有権移転仮登記の仮登記済証一通(評価額一、四〇〇、〇〇〇円相当)および投資信託証券預り証一通(時価八、七四〇、〇三一円相当)の各交付を受けた事実は、疑いをいれる余地なく肯認できる。さらに結果として、(証拠略)によれば、東京明治が昭和四〇年七月三日にいわゆる手形の不渡りを出して倒産し、同月三〇日に解散登記をするに至り、そのため右各土地売買契約において本質的な要素(条件)とされた当該土地の買戻契約を東京明治が履行することが不可能になり、現実にすべてこれが履行されなかつた事実は、客観的に明白である。一方、被告人廣川が昭和三九年一二月一四日ごろから昭和四〇年六月七日ごろまで東京明治の代表取締役社長であつたこと、被告人卜部が昭和三九年一二月一四日ごろから昭和四〇年六月七日ごろまでその専務取締役であり、同月八日ごろから右倒産まで被告人廣川の後を継いで代表取締役社長をしていたことも、(証拠略)によつて明らかである。

そこで問題は、まず第一に、各営業担当者らが顧客に対する勧誘として申し向け、各契約者らにおいて前記各金員等を出捐する決定的な誘因となつた「東京都八丈島所在の土地等を買うという形で金員を投資すれば、二ヶ月ないし約一年の間で定める一定の期日に利益率年約三割の割合による利益を付した金額で東京明治が当該土地を買戻して、右投資した元本とその利に相当する金員を必らず支払う」という事実が、右のように結果として真実に反することとなつたことについて、〈特〉契約一覧表記載の各契約日に客観的にその結果が予測されたかどうか、いいかえると右各契約日の時点で前記各買戻契約の履行日までに東京明治が倒産するに至るべきことが客観的に明らかであつたのかどうか、第二に、仮に客観的に東京明治において右各買戻契約を履行できる確実な見込みも能力もなかつたものとすれば、被告人両名の認識においてはどうであつたのか、第三に、また仮に被告人両名が右の点について十分な認識を有し、かつ、被告人両名が共謀のうえまたは被告人卜部が単独で情を知らない各営業担当者らに命じてこれらの契約を締結させたものとすれば、具体的に成立した〈特〉契約一覧表掲記の五九個の契約すべてが被告人らの指示に基づくものであるかどうか、ということである。そして、本件における争点も本質的にはすべて右三点に帰し、検察官は、被告人らが会社倒産が時間の問題であることを知りながら、一時的な延命を図るためあえて履行の見込みのない買戻条件を付して前記各契約を結ばせたことを認めるにたりる十分な資料があるから、本件各公訴事実はいずれもその証明が十分である旨主張し、弁護人らおよび被告人らは、前記各買戻条件付土地販売契約の実施を決定したころ東京明治は客観的にも倒産の気配など全くなく、まして被告人らは会社の前途が極めて明るいと信じていたから、被告人らは無罪である旨主張している。

(当裁判所の判断)

第一、東京明治の概況および被告人の地位等

一、(証拠略)によれば、次のような事実が認められる。

東京明治は、昭和二四年五月ごろ遠藤一平が東京都港区青山北町一丁目一番地において店を開いた明治不動産(個人企業)を母体として生れたいわゆる個人会社であつた。右個人企業である明治不動産は、不動産の売買や賃貸の仲介を主たる業務とするいわゆる街の不動産屋であつたが、昭和三三年四月ごろ同都中央区銀座に銀座支店を設け、昭和三五年九月ごろ大阪市内に支店を、その後、神戸市、京都市、名古屋市、福岡市などにもそれぞれ支店を置くなどその企業規模を次第に拡張して行つた。そして、昭和三六年一〇月には、東京において前記青山北町一丁目一番地に本店を置く明治不動産株式会社すなわち東京明治を資本金五、〇〇〇、〇〇〇円で設立し、同時に大阪においても同名の明治不動産株式会社(いわゆる大阪明治。以下「大阪明治」という。)を資本金二〇、〇〇〇、〇〇〇円で設立して法人組織となり、その後系列会社として、昭和三七年五月ごろ大阪明治の仕入部門を独立させた明治不動産開発株式会社(本店所在地は大阪市。のちに明治開発株式会社と商号を改める。以下「明治開発」という。)を、昭和三九年八月に大阪明治札幌支店の業務を引き継いだ札幌市に本店を置く明治不動産株式会社(以下「北海道明治」という。)を、同年一〇月に大阪明治九州支店を独立させた福岡市に本店を置く明治不動産株式会社(以下「九州明治」という。)を、また、昭和三六年一一月ごろ明治興産株式会社、昭和三八年四月ごろ株式会社アイデアセンター、同年九月ごろ明治建設株式会社、同年一一月ごろ明治観光株式会社などを設立していつたが、いずれも実質的にはその全株式を遠藤が保有するものであつた。

東京明治は、右のとおり昭和三六年一〇月に設立されたが、当時労使間の紛争などがあつたため、しばらくは個人企業のままの形で営業が行なわれ、法人としての実質的な事業活動は昭和三七年一〇月一日から開始された。そして、個人企業当時に東京都内にあつた銀座、京橋、青山および青山北の各支店を傘下に置き(同都豊島区池袋東一丁目にあつた池袋支店は、当初は大阪明治の支店とされ、約一年後に東京明治に返された)、まもなく横浜市内に横浜支店を新設し、その後上野、渋谷、浅草、大森、麻布および新宿の各支店を東京都内に設けたほか、昭和三八年八月ごろ仙台市内に仙台支店を、昭和三九年二月ごろ東京都八丈島八丈町に八丈営業所を置き、その間本店を前記名取ビル内に移し、資本金も昭和三九年三月ごろ二〇、〇〇〇、〇〇〇円に増資し、従業員数も最大に達した同年四月ごろから同年九月ごろまでは営業社員が七六〇名前後、事務系職員等を合わせて一、二〇〇名余、保有自動車数一二〇台を越えるなど、不動産業者としては有数といわれるほどに規模を発展させていた。また、本社機構は、昭和四〇年一月ごろ最も整備されるに至るが、その当時の事務分掌によると、総務部、業務監査部、企画部、管理部、経理部、車輛部ならびに社長室および出納室の六部二室制をとり、いわゆる庶務、人事等の事務を分掌する総務部には総務課および人事課、事故の処理や内部監査を担当する業務監査部には業務監査課、企業調査、広告等を担当する企画部に調査課と企画課、物件の仕入、在庫物件の管理等を行なう管理部には管理課、経理部にはいわゆる経理事務を処理する経理課と資金計画の立案等を行なう資金課、そして車輛部に一課、二課を置き、社長室には一般の秘書課事務を行なわせるなど、かなり大きな組織を持つていた。

一方、その経営については、当初、遠藤一平が代表取締役社長となり、専務取締役にそのいわば子飼いの番頭であつた宇野金正を、取締役に遠藤の実弟である中住俊夫や遠藤の義弟にあたる被告人卜部らを置いて、遠藤の独裁に近い体制で出発した。しかし、昭和三九年二月ごろ、遠藤は、所得税法違反の嫌疑で逮捕されるようなことがあつたため表面的に経営から手を引き、宇野が副社長となり、さらに同年七月ごろ遠藤が下部からの突き上げにあつて、主要な系列会社の社長の職を辞任したため、東京明治においても、宇野が代表取締役社長となつて実質的な経営にあたることになつた。そして、同人はその後二〇日ばかりで東京明治を退職するに至つたため、従来は明治不動産関係各会社と全く縁のなかつた吉沢福義がその際宇野の推選で専務取締役となつていたところから、吉沢が実質的な経営権を握ることとなり、同年一〇月には同人に会社代表権も与えられた。ところが、遠藤は、吉沢の経営方針が自己の意にそぐわないものであつたうえ、吉沢が株式の公開ないし譲渡を要求するようになつたことから、同人がいわゆる乗つ取りを策しているものとおそれ、ついに同年一二月一〇日ごろ同人およびその一派と考えられた取締役らを馘首し、当時九州明治の社長であつた被告人廣川を代表取締役社長とし、吉沢の下では非常勤とされていた被告人卜部を専務取締役にして(その他、中住俊夫が常務取締役に、また古くからの社員の岡上多が取締役となつた)、被告人らに東京明治の経営を委ねた。その後、後記のとおり東京明治の経営が極度に悪化した昭和四〇年五月末ごろ、被告人廣川も、遠藤との間で意見の衝突を生じ、直接には株式の公開の問題で同人の怒りを買つたことが原因となつて退職し、被告人卜部がその後を継いで代表取締役に就任し、岡上を専務取締役としたほか、当時の支店長らを取締役に登用し、前記倒産時に至つた。

なお、東京明治は、前記のとおり昭和四〇年七月三日ごろ倒産しているのであるが、大阪明治は、これより早く同年五月末ごろ手形の不渡りを出し、続いて北海道明治が、さらに東京明治の倒産後も明治開発、九州明治などの系列会社が次々と倒産し、いわゆる明治不動産グループは解体するに至つている。

二、被告人らの東京明治における地位、職務等は、右一に述べたとおりであるが、その経歴等について、(証拠略)によれば次のように認められる。

被告人廣川は、昭和三五年九月ごろ個人企業当時の大阪明治に営業部員として入り、大阪北支店の営業部長、同支店次長と次第に昇進し、大阪明治九州支店の支店長を経て、昭和三七年一月ごろには大阪明治の取締役兼神戸支店長、昭和三八年八月ごろ大阪明治の常務取締役となり、さらに昭和三九年一〇月九州明治設立と同時にその代表取締役社長に就任し、次いで同年一二月九州明治の社長を兼ねたまま前記のとおり東京明治の代表取締役となつた、いわば明治不動産における古参の営業マンである。一方、被告人卜部は、昭和三七年六月ごろ妻の兄にあたる遠藤一平から東京明治を手伝つて欲しいと頼まれて、それまで五年余勤めていた三菱商事株式会社を退職し、同年一〇月から東京明治の取締役総務部長となり、営業については一切経験がなかつたため、昭和三八年二月ごろ常務取締役、昭和三九年二月ごろ専務取締役と肩書は替つても終始経理面を担当し、前記吉沢が代表取締役をしていた時期に遠藤一平の一族であることを嫌われて非常勤とされた際も、経理面の監督は続け、同年一二月前記のとおり被告人廣川と東京明治の経営にあたるようになつたのちも、主として経理担当重役という立場にあつた。

第二、東京明治における営業活動等

東京明治における営業活動の実態等は、(証拠略)によれば、次のようなものであつたと認められる。

一、東京明治における営業活動の主体は各支店であつた。すなわち、個人企業当時から本店は各支店を統轄し全体としての企業の運営を司どるにとどまり、営業活動には直接関与せず、各支店(本店にも本社営業部があつたが、これも本店内に事務所を置く一個の支店であつた。従つて、以下「支店」というときは、本社営業部を含む。)は、支店長を代表者として営業の主体となり、営業活動において大幅な裁量権が与えられると同時に、収益を上げることについて極めて重い責任が課せられていた。

そして、各支店においては、営業単位として数個の営業部が置かれ、各営業部には数個の営業課が置かれたが、実際の営業活動においては組織体としての部または課はほとんど意味を持たず、営業部長、営業課長または営業係長も、若干の監督権限を除けば、そのする仕事においては一般の営業社員と異らず、客との交渉、契約の締結などについては全く一個の外務員として活動した。一方、支店長は、組織体としての支店の最高責任者であるとともに、これらの営業活動の統轄者であつて、東京明治が当事者となつて締結される契約においては、原則として支店長名義が用いられ、営業上の取引にはすべて支店長の承認を要することとなつていた。また、支店長は、このように支店内において強力な権限を有したばかりでなく、支店がまさに会社存立の基礎であつたところから、営業面では本店に対する発言力もかなり強く、とくに被告人廣川が代表取締役となつてからは、被告人らが政策的にも支店長を経営幹部と称してその意見を聞く態度をとつたこともあつて、支店長らの意向は無視できないものがあつた。

二、個人企業当時の明治不動産は、前記のとおり一般にいわれる不動産屋であつて、仲介業務、すなわち一方で土地や建物の売却、賃貸を希望する客の依頼を受け、他方でそれらの購入や賃貸を求める客の依頼を受け、それぞれ希望の条件に一致する相手方を探して紹介し、客相互間の契約が成立するようあつせんするという業務を営業内容としていた。この場合、明治不動産は契約の当事者となることなく、右営業によつて得る収入はその仲介の手数料である。そして、東京明治においても、当初はそのまま引き続いて実需と呼ばれる仲介業務をその本件的な業務としていた。ただ、明治不動産ないし東京明治においては、他の同業者らに先き駈けて新聞、テレビ等のいわゆるマス・メデアによる広告を広汎に利用することを行ない、これがとくに初期において前記のように急激に企業規模を拡げえた一因となつていた。

しかし、前記のように昭和三五年に大阪市内に支店を設けたのち、遠藤一平とともに大阪へ進出した者らは、昭和三六年ごろから社会一般に不動産投資に対する志向が強くなつて来たのに乗じ、投資業務と呼ばれる形態の営業活動に乗り出し、次第に大阪明治傘下の各支店の営業のほとんどすべてがこの投資業務によつて占められるようになつて来た。すなわち、不動産わけても土地を現実に利用する意図なくただその価格の騰貴によつて生じる利ざやを得ることのみを目的とするいわゆる投資客を対象として、明治不動産が自己の名において仕入れた富士山麓、北海道等遠隔地にあつて、そのままでは使用できない山林や原野を販売するという営業が大阪系各支店の業務の主流を占めるようになつた。この場合は、会社が直接の契約当事者となり、その得る収入は、仕入価格と販売価格(売上)との差額すなわち売買差益である。そして、仲介業務によつては、社会における土地建物の現実の需用を基礎とするだけに堅実とはいえ、営業努力を重ねてもさほど急激にその得る仲介手数料の額を増加させることは期待されないにもかかわらず、投資業務は、客も利殖を目的とするだけに、その投資(機)欲をそそればそそるほど営業活動を活発化することができ、また、一件の取引によつて生じる利益も仲介手数料と比較にならないほど多額であるのが通常であつたから、大阪系各支店は、著しく急激にその業績を伸ばして行つた。

これに対し、東京明治は、前記のようになお仲介業務に頼つていたため、大阪明治に比してその業績が著しく劣ることになつたところ、これを不満とした遠藤一平が昭和三七年秋ごろから東京系各支店においても投資業務を行なうよう強い指示を出し、投資業務に慣れていない東京系各支店を指導する意味もあつて、前記のように池袋支店を大阪明治の管轄とし、大阪系の支店において投資業務を習得した者らを右池袋支店に幹部として送り込んで東京における投資業務の本拠とする措置をとつた。このため、東京明治においても、法人としての実質的活動を開始したころから、まず銀座支店が最初となつて投資業務に手をつけ始め、他の各支店も次第に投資業務を採用し、営業の重点をこれに移していくようになつた。

なお、東京明治はじめ明治不動産系列各会社においては、仲介業務当時から商談が成立すると当該取引の担当者は「〈報〉」と称する報告書=伝票(この報告書には、売上金額または仲介手数料の総額が記載されるところから、その額をも「〈報〉」と呼ぶ習わしであつた)を提出し、さらに客から現実に販売代金や手数料の支払いを受けると、会社の収入となる金額すなわちいわゆる荒利益の額等を記載した「〈入〉」と称する報告書=伝票(「〈報〉」と同様、右の荒利益の額も「〈入〉」と呼ばれた)を提出することになつていた。そして、当該取引を担当した営業部長以下の営業社員らは、この〈入〉があつたのち数日後には〈入〉金額の二〇%ないし三〇%――時期により、または業務の内容、取扱つた物件の内容などにより多少差がある――にあたる金額を現金で歩給として支給を受けた。これら営業社員らに対しては、昭和三八年一〇月までは固定給の支給がなく、その後固定給の制度が採用されたが、昭和四〇年始ごろにおいても一般の社員で月額一〇、〇〇〇円程度の極めて低額にすぎず、営業社員らにとつて歩給が唯一の収入となつていた。また、支店長や部課長には、当該支店または部のあげた〈入〉に応じて、毎月、一定の割合による業績給が支給され、取締役らに対する給与も、月々の〈入〉の額が基準となつて定まる仕組みであつた。従つて、前記投資業務の採用による急激な業績の向上すなわち〈入〉額の増加は、ただ会社にとつて利益であつたばかりでなく、取締役はじめ全社員(固定給のみの支給を受ける若干の事務系職員は、事情が異なる)にとつて、直接に自己の利益に繋がることであつた。

三、投資業務は、原則的にいえば、右二でも述べたように、会社または支店において遠隔地にある比較的安価な(例えば、後記のいわゆる八丈物件の仕入価格も、高いもので坪あたり二、〇〇〇円前後である。)山林や原野を大量に仕入れ、これをある程度まとまつた単位で投資客に対して順次販売するという営業方法であつた。この場合、販売価格は、仕入価格の二倍前後であることが多く、また、客に対する売込みの方法は、近い将来においてその地価が急速に値上りすると称して、その投資欲をそそることであつた。さらに販売した土地については、所有権移転のいわゆる本登記をつけるのを本則としていたが、客の側においても後記のように短期間で転売して金銭の利殖を図ることを目的としているのが普通であつたため、登記に要する費用を惜しんだり、脱税の意図があつたりして、仮登記にとどめることを希望する例、時には仮登記すら不要とする例もかなり存した。

投資業務の対象となる物件の仕入については、東京明治は、投資業務を手がけ始めたころには、大阪明治沼津支店が地主から仕入れた富士山麓の土地を同支店から仕入れたり、大阪明治札幌支店から北海道所在の土地を仕入れたり、むしろ明治不動産という全体としての企業の販売部門のみを担当する色彩が強かつた。その後においても、全体的にみれば、明治開発は大阪明治の仕入部門の独立したものであつて、大阪明治のみならず東京明治の仕入も明治開発が担当する建前であり、実際にも東京明治はかなりの物件を明治開発から仕入れた。しかし、これによつては、利益の一部を明治開発等に吸い上げられるうえ、営業社員らにとつて「安く買つて高く売る」という投資業務の本来のうま味が十分味わえないうらみがあつたため、東京明治の各支店において独自に直接地主から仕入れるということが次第に多くなつて来た。なお、歩給の支払いは仕入を担当した社員(当時「物担社員」と呼ばれた。)に対しても行なわれる仕組みで、ある支店が別の支店の仕入れた物件を販売した場合、販売を担当した支店ではその〈入〉の中から当該他の支店の物担社員に歩給を支払わなければならなかつたから、各支店とも自己の支店で仕入れて自己の支店で売る、さらには支店内の各営業部ごとに自己の部で販売する物件は当該部で仕入れるという傾向すら出て来た。このような、支店が独自の仕入を行なう場合、本社に対して買付申請をしてその許可を得る建前であつたが、あらかじめ会社資金を支出していわゆる社有地としたうえで販売するという正統的な型態のほか、一定の物件の仕入の見込みがたつと直ちにこれを投資客に売りつけ、先にその売上代金を受け取つたうえ、その金で当該物件を仕入れるというやり方、地主に一定坪数の土地の販売を約束して手付金を渡し、次々と客に分譲してその代金で地主に支払つていくというやり方なども行なわれていた(東京明治において「つなぎ販売」と呼ばれていた販売方法がどのような型態のものであつたか、必ずしも明確でないが、これが少くとも仕入に自己資金を使用しない右のようなやり方の一種であつたこと、また、この種型態の業務が実質は投資業務であつても、地主と客との間の直接の契約の形をとることによつて形式的には仲介業務となしえたことなどが窺える)。

しかし、このような各支店による独自の仕入は、後に述べるように東京明治の経営状態が悪化し始めると、会社全体の資金の効率的な運用を阻害するとともに各種不正の温床となるという弊害面が強く出て来たため、吉沢福義が専務取締役となつた直後から仕入に対する規制を強め、昭和三九年八月ごろ買付委員会という制度を作つて、東京明治として会社全体の立場から仕入の要否を決定することにし、同月以降は売買に関する一切の契約証書類をすべて本店に送付させ、さらに同年一一月には経理部管理課を新設して、各支店の仕入と売上の状況や在庫物件の状況などを正確に把握しようと試みた。

四、この投資業務は、先に述べたように東京明治のみならず明治不動産全体の業績と企業規模を短期間で著しく向上させるのに役立つたが、それ自体のうちに会社の経営を困難に導くような要因を内在していた。すなわち、前記のとおり投資業務において土地を買受けた客は、当該土地を直接に用益する目的はもとよりなく、またこれを資産として長期間保有する意図もなく、むしろ株の売買や商品の相場取引と同じく短期間で転売して利ざやを得ることのみを目的とするのが通常であつたから、物件の購入にあたつては、営業社員らに当該物件がそのような目的に合致するものであることの保証を要求する例も多かつた。このため、営業社員らは、その転売(東京明治においては「再売り」と称していた。)について単に努力を約するにとどまらず、一定期間後に一定の利益を付した額で再売りすることを約束したり、さらには再売りができないときは当該金額で会社が買戻すという約束をし、その旨の念書を差入れるということ(念書業務)すらしばしば行なうようになつた。これに対し、会社としては、度々、念書業務ないし再売り約束を付した販売を禁止する旨の通達を出したり、各支店の店頭に営業社員らのした再売りや買戻しの約束については会社として責任を負わない旨の掲示を出すなどしてその防止に努めたが、余り実効を挙げることができなかつた。

ところで、東京明治においては、前記のとおり各支店が営業の主体であり、かつ、収益の源泉であつたところから、その経営にあたつた者らは、会社の収益を増加させる方策として各支店間で激烈な業績競争を行なわせ、優秀な業績を上げた支店に対しては特賞金その他種々の褒賞を与える一方、成績の劣る支店に対しては厳しい叱責が加えられ、業績向上のための強硬な処置がとられた。このような業績競争策は、支店相互間においてのみならず、営業社員ら個々人に対しても採用され、業績さえ上げれば入社後短期間で係長、課長、部長さらには支店長へと急速な昇進を続けることができ、逆に成績の悪い者は取り残され、時には降格されるということもあつた。そして、支店長や営業社員らにとつて、業績すなわち〈入〉を向上させることは、前記のとおり歩給という形で自己の個人的な金銭上の利益にも直接影響したから、その意味でも東京明治の社員らにとつては一円でも多くの〈入〉をあげることが重要であつた。

従つて、前記のように会社としては懸命に防止に努めた再売りや買戻し約束付の販売は、最も容易に物件を販売し〈入〉をあげる方法として、これを営業社員らがやめるどころか、後記横浜支店の例のように支店ぐるみでそのような念書業務を行なう例も出て来た。のみならず、前記のように形式的には仲介業務を装つて投資業務を行なうことができたため、思惑によつて物件の販売を先行させ、当該物件の仕入れが結果的に不能になつて、再売り約束が履行できないというより、もともと引渡すべき土地が存在しなかつたり、投資客らが再売り約束の履行のみに関心を寄せて、物件そのものの調査を怠たるという傾向があるのに乗じ、存在しない土地や説明した内容と現況の著しく異なる土地を売りつけたりすることから生ずるいわゆる事故も増加した。また、対会社関係において、表面的な業績をつくろうために架空の売上げの報告を出し(空〈報〉)、時としては業績競争に勝つために架空の契約による〈入〉を出したうえ、個人的な借金までしてこれに見合う金員を会社に納入する(空〈入〉)などの秘密操作もかなり多く行なわれた。さらに一方、投資業務においては取引額やこれによつて生じる利益額が大きいところから、目前の金銭的誘惑に克てず、当該取引について一切会社に報告しなかつたり、売上額を実際より低くまたは現実の仕入額に上載せして報告して、売買差益の全部または一部を個人的に不正に領得する営業社員らも存在した。

そして、これらの再売りないし買戻し約束、事故、不正などが表面化したときは、東京明治は、その法律的責任は別として、会社の信用を保持して営業を継続していく必要から、会社として買戻したり、支払いを受けた代金を弁償したりせざるをえなかつたから、すでに昭和三九年五月ごろから次第にこれらのいわゆる事故処理に必要な資金が会社の財政を圧迫し始めた。また、表面的にはかなり巨額にのぼつた〈入〉も、そのような潜在的には損失に転化する部分を含むことになつたため、その〈入〉が増加するにつれて拡大されて来た企業規模が、かえつてその後における経営悪化の原因となる結果を生じるに至つた。

第三、各種会計資料によつて窺われる東京明治の財政状態等

右第二で述べたように投資業務を本体的な営業内容とするようになつた東京明治は、それ自体に内包する要因を基礎として、昭和三九年八月ごろから経営状態を悪化させ、昭和四〇年一月以後本件訴因とされている〈特〉契約という特殊な営業を行ない、同年七月ついに倒産に至るのであるが、その具体的状況についてみる前に、会計帳簿、財務諸表等によりその数字的側面から経営状態の推移を検討してみよう。

一、まず、一般に企業とりわけ株式会社において、その企業ないし会社の財政状態を端的に示すものは、貸借対照表および損益計算書である。

(一) 渋谷税務署長佐藤雄次郎作成の捜査関係事項照会回答書(東京明治の法人税確定申告書およびその附属書類写三通添付)によれば、東京明治が法人としての事業活動を開始した昭和三七年一〇月一日以後の各事業年度において、会社として公式に確定した各期末の貸借対照表および損益計算書の要旨は、別表一1~6記載のとおりである。そして、これによれば、第一期(昭和三七年一〇月一日から昭和三八年七月三一日まで)においては、八〇、四四八、四三四円の当期利益が計上されているが、第二期(昭和三八年八月一日から昭和三九年七月三一日まで)においては、三四九、四二〇、八三〇円の当期損失が計上され、最終年度である第三期(昭和三九年八月一日から昭和四〇年七月二九日まで)においては、当期損失が四五三、七九九、六三九円計上され、結局、事業開始後解散までの間に累積欠損金七二二、七七二、〇三五円を生じたことになる。

また、第三期における各月別の月末貸借対照表および月間損益計算書をみると、押収してある店別合計残高試算綴一綴(昭和四三年押第一、七二五号の八二)によれば、その要旨は、別表一7~26記載(ただし、各表中「(ロ)」の表示を付した部分を除く。)のとおりである。そして、これによると、昭和三九年八月には八五、八四三、七六六円、同年九月には一二八、三二〇、八二〇円の各欠損金が、同年一〇月および同年一一月には一四、八九一、九〇三円および四八、二四五、三〇一円の各利益金が、次いで同年一二月には三一、五一九、〇一八円、昭和四〇年一月には一一一、六三九、七四六円、同年二月には六六、二八八、六〇二円、同年三月には一〇八、八四四、三七九円、同年四月には九九、九九一、一四〇円、同年五月には一四五、〇七七、三九八円の各欠損金がそれぞれ計上され、昭和三九年八月一日から昭和四〇年五月三一日までの間の損益としては、七一四、三八七、六六五円の欠損を生じた計算となつている。

従つて、もしこれらの数字が正確なものとすれば、東京明治は、第一期において若干の利益をあげたのみで、第二期以後は赤字を続け、倒産時においては累積赤字が七億二千万円にものぼつているのであるから、まさに倒産するべくして倒産したという結論になろう。

(二) しかし、弁護人らは、これらの財務諸表に表われた数字は、東京明治の財政状態の実体を示すものではない旨主張し、被告人らも、当公判廷において、とくに第二期の当期損失金三四九、四二〇、八三〇円は税務対策(脱税ないし節税)、唯一の株主である遠藤一平に対する利益配当の回避その他種々の思惑から、本来八億円前後計上すべきであつた利益を隠して、逆に赤字決算とするために計上した数字である旨、また、前記押収してある店別合計残高試算表綴一綴についても、これが経理課員らにおいて試みに作成したものであつて、被告人らは見たこともなく、これに記載された数字には責任を持ちえないという趣旨の供述をしている。

そこでこの点検討するのに、たしかに東京明治の会計処理については、一般の企業におけるそれとやゝ異なつた要素のあつたことは否定できない。すなわち、(証拠略)によれば、この点に関し次のように認められる。東京明治は、前記のとおり他人の不動産の売買、賃貸等の仲介あつせんを本体的な業務とする個人企業の明治不動産の発展したものであるところ、そのような仲介業務時代には、当時の唯一の営業収入は、前記のように〈入〉と呼ばれる仲介手数料(ほとんどが現金収入で、手形で支払いを受けることは考えられなかつた。)であつて、売上と仕入との間の差益計算を行なう必要がなくいわば売上即荒利益であり、支出を要する経費は、外務員その他に支払うべき人件費および広告費がほとんどであり、設備投資も営業に必要な店舗、車輛等以外にはなかつたから、その会計はほとんど現金出納会計でたり、経営にあたつた遠藤一平らも、右〈入〉額と人件費および広告費との関連さえ把握していれば、会社の経営ないし財政状態を知ることができた。これを端的に表わすのが第一期の期末貸借対照表および損益計算書(別表一1および2)であり、例えば損益計算書においては、利益の部に期末不動産棚卸勘定(在庫商品勘定)がなく、損失の部に仕入勘定が存在しないこと、また貸借対照表においても、資産に棚卸不動産は計上されず、現預金等が資産において占める比率が著しく大きく、一方負債も借入金はわずか八、二五〇、〇〇〇円であつて、他は営業的に現預金の移動によつて生じる極めて一時的なものにすぎないことなどをみれば、東京明治の当時の会計の性格が明らかである。

さらに、前記各証拠によれば、東京明治が前記のように次第に投資業務へとその営業の主体を移行させていつたのちも、従来の〈入〉の観念が営業面でも会計面でも依然として強力に支配していたことが認められる。投資業務においては、前記のように東京明治が自己の名において仕入れた物件を順次販売するというものであるから、この業務は、会計面では当然、仕入勘定、売上勘定および不動産棚卸(在庫)勘定によつて処理されなければならない。しかるに、東京明治においては、昭和三九年三月まで、投資業務についても売上から仕入を差引いた差額である〈入〉のみに基づく会計処理がなされ、同年四月に至つてようやく仕入勘定や売上勘定などの勘定科目がたてられたにすぎない。さらに営業面での投資業務が前にも触れたとおり、仕入れた土地について造成などすることなく、これをそのまま地価の変動のみを目的とする投資客にいわば右から左に売りつけるという型態のものであつて、しかも、地主には手付金を渡した段階で客に販売し、その売却代金のうちから地主に対する残代金を支払うという形のものも多かつたから、この業務も金額や方法こそ差があれ地主と客との間に立つての口銭の取得という色彩が強く、これが会計面にも反映して棚卸不動産の存在は十分把握されない傾向にあつた。例えばAという土地一、〇〇〇坪を一、〇〇〇、〇〇〇円で仕入れて現金一、八〇〇、〇〇〇円で売つた場合、まず地主に一〇〇、〇〇〇円の手付金が支払われると、前渡金一〇〇、〇〇〇円という勘定が起され、客から二〇〇、〇〇〇円の手付金の支払を受けた段階で前受金二〇〇、〇〇〇円、さらに残金全額の支払を受けて前受金一、八〇〇、〇〇〇円、次いでそのうちから地主に対する仕入残金の支払をして前渡金九〇〇、〇〇〇円という処理がされて、この取引に関しては前渡金一、〇〇〇、〇〇〇円(借方)と前受金一、八〇〇、〇〇〇円(貸方)という勘定が立てられる。そして、最終的には――会計処理の原則からすれば、当該不動産の登記および引渡が完了した時点であるが、実際の事務処理では期末にまとめることもあつた――これが仕入と売上の各勘定に振替えられるが、前記のように投資客のうちには登記も引渡も受けぬまま再売りを求める例もあつたから、いつまでも前渡金と前受金のままで残るという例もあつた。また、一括して仕入れた物件を一部づつ販売した場合、仕入代金は前渡金、売上があるとこれがその都度前受金として処理され、その仕入れた物件の一部が売れ残つている間は、売上と仕入に振替えない――従つて、棚卸不動産の計上がされない――という処理も多数行なわれている。さらには、売上が前受金勘定のままである間、売買契約が解除され、または買戻しを行なつたような場合、当初の売上金額を前受金勘定から減じ、その際客に支払つた金額と当初の金額との差を雑損勘定に計上するという処理は当然であるが、その時販売した物件そのものは東京明治に戻るのであるから、これを棚卸不動産として計上しなければならないのに、仕入が前渡金勘定のままであるため、これをすることができず、右物件がいわば宙に浮いた形のまま処理されている例もかなり見られる。以上のような会計処理は、棚卸不動産の存在の余地のない仲介業務時代の伝統的な〈入〉の観念によつてその後も強い影響を受けている経営に、会計面を合致させるためのもののようであるが、しかし、これら会計処理は現実には〈入〉によつて表示される営業上の業績と会計的に表わした会社の財政状態に著しい喰い違いを生じさせる結果を招来している。

その喰い違いの主要な点は、第一に、〈入〉は東京明治が売主となつた取引において客からの代金の完済すなわち現実の入金(入金額が代金完済に至らず、仕入金額相当部分を越えた段階でする中間金〈入〉は、会社の禁止するところであつたが、実際には蔭で行なわれていた)があるとその時点でこれをすることができるのに対し、会計面で前受金・前渡金勘定から売上・仕入勘定に振替られて利益が計上されるのはこれより時期的にかなり遅れることであり、第二は、営業上は在庫として存在するものが会計的には棚卸不動産として計上されないでいるという場合が多くなることである。

(三) そこで以上のような見地から再び別表一1~26の各貸借対照表および損益計算書をみると、第二期の期末貸借対照表(別表一3)に計上された前受金一、八八二、八一七、六〇九円と、前渡金三九九、一八二、六五四円および歩給前渡金二一一、七四一、九九四円とをいかに評価すべきかということが根本的な問題であろう。この点、検察官は、同期における販売には再売り約束ないし買戻し約束のつけられたものや、空売り、異物件などの事故を伴つたものが多く、従つて将来客にその代金額を返済しなければならないことが確実に予定されている売上部分を前受金として計上しているのであつて、右部分が負債として評価されるべきことは当然であると主張するところ、(証拠略)によれば、右第二期の決算を行なうにあたり本社の経理担当者らが各支店の会計係らを指導して、すでに売上に計上されていた部分を前受金に振戻させ、その直前においては約六億円であつた前受金を前記のように一八億八千万円余に増加(これに見合つて前渡金、歩給前渡金についても振戻が行なわれた)させる操作をした事実は明らかであるが、こうして振戻された前受金のいかなる部分が「物件違い」「物件成らず」「架空」〔押収してある前受金区分説明と題する書面一枚(昭和四三年押第一、七二五号の一三七(ハ))による区分〕その他の事故等によるものか、前記のような会計処理上の取引未完了(右前受金区分説明と題する書面の用語に従えば、「分筆所有権移転未済」)によるものかは、これを明確にするなんらの資料もない。むしろ逆に、後記のように〈入〉としては昭和三八年八月一日から昭和三九年七月三一日までに合計三、〇五七、九八二、八二二円あがつていることと、前記のような東京明治の会計における前受金処理の実態ないし実質的意味、さらには第一期の期末における前受金二一六、九三七、九八九円および第三期の期末(解散時)におけるそれ四九九、二五一、五六五円(別表一5の前受金の下欄にある九〇、四六〇、〇〇〇円は、未成工事前受金であつて、性質を異にする)と対比して第二期における前受金勘定が異常に多額であること、前記のように売上・仕入という勘定をたてるようになつたのが昭和三九年四月以後であつて、それ以前におけるものについては事後に整理したものであること等を合わせ考えれば、右第二期期末における前受金一八億八千万円余りが全額、本来的意味における負債の性格を持つていたものとは到底認められない。いいかえると、この点検察官の主張事実は証明されたとはいいがたいから、逆に被告人らに利益に解すべきものとすれば、一応、弁護人ら主張の計算方法に従い、負債勘定から一二億余円を減じ、一方資産勘定からこれに見合うべき前渡金および歩給前渡金合計約六億円を減じて、差引、負債が六億円余減少し、同期における資産の増減(損益)は、右財務諸表に表われた数字とは逆に約三億円の当期利益を計上すべきであるとの結論もあながち否定できないであろう。とりわけ、被告人らが当公判廷における供述中で、右第二期の決算は実質的に約八億の黒字であると考えていたと述べるのを、単なる弁解として否定することは許されない。なお、右のように前受金勘定と前渡金勘定についての数字が実体を表わすものでないとすれば、その必然の結果として、貸借対照表および損益計算書における棚卸不動産の額や損益計算書における売上および仕入の額もこれがそのまま実体を表わすものとして考えられなくなるのは当然であろう。

次に、別表一7~26の第三期における各月末貸借対照表および月間損益計算書については、右各表の記載上明らかなように、損益の算出をこれに頼れない本質的な欠陥が存する。すなわち、売上勘定と仕入勘定をたてた場合は、仕入残すなわち棚卸不動産の額が確定できなければ売上利益や資産の増減を計算することができないはずであるが、右各表においては、棚卸不動産の額として第二期の期末におけるそれ六一二、三三一、二四三円を全く変動なきものとして計上しており、営業を継続している間にこのように在庫の変動を生じないということは絶対にありえないから、右各表で示される各月間の損益(月末の資産増減)はほとんど架空のものというほかはない。なお、当裁判所において試みに右各表注記の各資料により棚卸不動産残高に修正を加えてみた(各表中「(ロ)」の表示を付した部分)が、右各資料は〈入〉を前提としての営業在庫金額を示すものであつて、前記のとおり会計在庫はこれとかなり喰い違つたものになることが窺えるから、右修正を加えた結果が正確なものであるなどとは到底いえない。

(四) 以上から結局、貸借対照表および損益計算書からは直ちに東京明治の財政状態を認定することができないものといわざるをえないのであるが、これら財務諸表に計上されている各数字が全く出鱈目であるとも到底考えられないから、これにより一つの傾向を看取することはできるであろう。

それは、まず第二期の期末貸借対照表(別表一3)によれば、現金、預貯金、受取手形および有価証券の合計が二七一、五三九、三〇一円であるのに、これでもつて支払を要する仕入未払金、支払手形などが右両勘定科目だけで三〇三、三七〇、五五六円あり、従つて、前記被告人ら主張のように同期に利益が上つたものとすれば、それは棚卸不動産の形となつて資産化しているということになる。とすると、この棚卸不動産が計上高どおりの価値があるかどうかは別としても、東京明治の前述したような本来的に仲介業者的性格すなわち自己の在庫を持たず地主から客に物件を流してその間に利潤をあげるという性格からみれば、これは決して好ましいことではなく、後述のように昭和三九年末から極度に資金繰りの苦しくなつた原因の一つをここに見出すことができる。次に、各期を通じて、資産の額に比して資本金(自己資本)の額が著しく低いことである。それは資産に対して負債――とりわけ短期の負債――でバランスを保つているということであり、このような構成においてはいつたん資金繰りにアンバランスを生じるとたちまち経営が苦しくなるのは自明の理である。さらに、資産として暖簾権が第一期には一五四、六六六、六六七円、第二期には一三〇、〇〇〇、〇〇〇円、第三期には一一五、〇〇〇、〇〇〇円計上されているが、坂本雄三ほか七名作成の報告書によれば、倒産後においてはこれが全く資産性を持たないことが明らかであり、結局全体としてみて、東京明治は資産的に余り強固な基盤を持つとはいえないことが右の点にも象徴されている。

二、右のように財務諸表によつては東京明治の財政状態を正確に把握できないものとすれば、〈入〉によつてこれをみることはどうであろうか。

(一) (証拠略)によれば、昭和三八年一月一日から昭和四〇年五月三一日までの間の〈入〉額は別表二1業績一覧表記載のとおりである。そして、これによると、昭和三八年一月から同年七月までの〈入〉合計は一、〇三三、六六一、三六三円(昭和三七年一〇月から同年一二月までの〈入〉についてはこれを知る資料がないので、この間一ヶ月あたり右昭和三八年一月から同年八月までの月平均額と同じ〈入〉があつたものと仮定すれば、第一期の〈入〉額は約一四億円と見積れる。)、昭和三八年八月から昭和三九年七月までの第二期においては、〈入〉合計三、〇五七、九八二、八二二円、そして第三期においては、昭和三九年八月から昭和四〇年五月までで合計一、二三六、四三九、八二一円であり、同年六月以降の〈入〉はこれを正確に知る資料はないが、(証拠略)によれば六月二八日現在で三一、〇五〇、五三六円であるから、結局合計一、二六七、四九〇、七五七円程度の〈入〉を得たものと推計できる。なお、右各期ごとの〈入〉額の合計は、別表一2、4および6の各損益計算書の売上総利益(第一期五九五、五三〇、七二六円、第二期一、六九〇、一四三、四七八円、第三期一、三五九、五七四、一九九円)に対応すべきものであるが、右によつて明らかなとおり第三期を除けば両者に著しい喰い違いがあり、これは前記一に述べたような理由に基づくものと思われる。

(二) そこで、右各〈入〉は、いわゆる荒利益であるから、各期ごとにこれにより営業社員らに対する歩給、広告代その他の経費を差引けば、一応の損益計算が可能である。しかし、第一期および第二期については、その期における経費がいくらであつたかこれを知る資料は、本件全証拠によるも存在しない。一方、第三期については、押収してある資料綴(ただし、東京本社経理部のもの)一綴(前記押号の七〇)によれば、昭和三九年八月から昭和四〇年四月までの各月に関して、本社経理部経理課において〈入〉を基準とする簡易な方法による損益計算が行なわれている(右綴中の「〈入〉基準売買および在庫販売損益明細」と題する各書面)。その結果をとりまとめたのが、別表二2簡易な計算法による損益一覧表であるが、この計算は、〈入〉(売買〈入〉=投資業務による〈入〉と仲介〈入〉=仲介業務による〈入〉)と、雑収入や受取利息、さらに在庫販売差益を合計したものを収入とし、通常の損益計算(合計残高試算)において算出される経費(経費となるものの内訳については、別表二3経常経費およびいわゆる損益分岐点に関する一覧表参照)をこれから差し引いたものである。なお、在庫販売差益が売買〈入〉と区別して計上されるのは、(証拠略)によれば、前記のとおり仕入れた物件を利をのせて右から左に販売する投資業務においては、在庫物件というものが生じない建前であるが、売れ残りを生じたり、前記のように買戻し約束、事故等で東京明治がこれを引き取つた物件は在庫となり、これらについては一般の販売と異なり十分な売買差益が生じなかつたり、後記のようにコストダウン(仕入原価を割つて販売価格を定める)したりしたため、在庫販売促進の見地から業績面では差益の有無にかかわらず販売高の三〇パーセントを〈入〉とみなす扱いをしていたことによる(従つて、正規に在庫販売差益を計算した場合の収入総計は、右みなし〈入〉を含む別表二1業績一覧表の〈入〉額より多少低くなる)。

ところで、右簡易な計算法による損益一覧表によると、第三期においては、利益を生じたのは、昭和三九年八月(三、五六七、一九二円)、同年一〇月(一五、〇七三、一八三円)および昭和四〇年二月(八、七八七、二三四円)のみであり、その余の各月にはいずれも欠損(昭和三九年九月四、五六一、九六二円、同年一一月三六、二二六、八八四円、同年一二月六八、一八九、一五四円、昭和四〇年一月三六、四六三、五〇三円、同年三月四、七六一、一〇七円、同年四月四八、五六五、〇〇七円)を生じており、昭和三九年一二月末までの損失合計九〇、三三七、六二五円、昭和四〇年四月末には損失合計一七一、三四〇、〇〇八円となり、さらに次に述べるように一ヶ月の損益分岐点を一億三千万円とすれば、前記昭和四〇年五月以降の〈入〉額と対比して、第三期における損失額は少くとも三億二千万円を超えるという結論が出る。そして、このような損失を生じたのは、数字的にいえば、端的に業績が低下したため、すなわち経費を賄うにたりる以上の収入を上げえなかつたためというほかはなく、右のような業績の落ち込みと損失が継続的に生じる限りは、仮に前記のように昭和三九年七月三一日現在では三億円程度の利益を生じていた(仮に、昭和三八年八月から昭和三九年七月までの各月の損益分岐点も後記と同じく一億三千万円とすれば、第二期における〈入〉基準の損益計算では大幅な黒字となる。)ものとしても、前記のとおりの東京明治の脆弱な体質からすれば、東京明治が倒産への道を突き進んでいたと結果的にみることもできるのである。

(三) それでは東京明治において昭和三九年八月以降、一ヶ月あたりいくら以上収入を得ることができれば、損失を生じないで済むであろうか――いわゆる損益分岐点の問題である。(証拠略)によれば、別表二3経常経費およびいわゆる損益分岐点に関する一覧表のとおり、おおむね一億三千万円が損益分岐点であつたことが認められる。すなわち、同表の外務員給料手当から役員室経費までは毎月現実に金員の支払を要する経費、役員報酬から有価証券売却損までは利益を生じない限り支払を要しないものまたは計算上のものであるところ、昭和三九年八月から一一月までの実績は右計算上のものまで含めて一ヶ月平均一〇二、二八一、三六九円(うち現実の支出部分九〇、九九三、二〇〇円)、同年八月から一二月までの実績は同じく一ヶ月平均一〇八、三〇八、八六一円(うち現実の支出部分九三、九〇二、〇八八円)である。しかし、右のうちには〈入〉額に応じて変動する外務員歩給、業績給および特賞金を含んでいないので、これをみると、(証拠略)によれば、各月の変動費の額および〈入〉に対する変動費率は、別表二4変動費内訳表のとおりとなる。そこで、前記損益分岐点算出基礎額表において変動費率とされている二二パーセント(昭和三九年八月から一二月までの月平均変動費率は、別表二4変動費内訳表によれば約二一パーセントである)によつて、前記経費総計額を賄うのに必要な〈入〉額を算出すると、別表二3経常経費およびいわゆる損益分岐点に関する一覧表のとおり、一一月までの月平均で一三一、一二九、九六〇円、一二月までの月平均で一三八、八五七、五一四円となる。

次に、昭和四〇年一月から三月までの損益分岐点をみると、同表のとおり、現実に支出を要する部分は一ヶ月あたり七四、四二三、一六一円であり、経費総計は九三、〇七四、〇九九円である。そして、右期間の月平均変動費率は、別表二4変動費内訳表によれば、約三〇パーセントに上昇している(これは、前記損益分岐点に関する一覧表によつて明らかなように、外務員給料手当=固定給が減じられたことに対応するものである。)から、右変動費率によつて所要〈入〉額を計算すると、これが月一三二、九六二、九九八円となる。なお、前記経常経費見込額調表は、同表の記載上明らかなように昭和四〇年二月六日ごろ社長室において作成されたものと認められるところ、同表において見込まれた経費額は、別表二3経常経費およびいわゆる損益分岐点に関する一覧表のとおり、雑損を除いては、右昭和四〇年一月から三月までの月平均実績とほとんど完全に一致し、(証拠略)と合わせ考えれば、被告人らは、昭和四〇年一月以後ある程度経費の削減に努力していたことも窺えるのであるが、それでもなお経費を賄うのに月一億三千万円を必要とし、かつ、後記のように〈特〉契約により〈入〉が著しく増加した同年二月を除いては、右のいわゆる損益分岐点を割り、欠損を生じているのである。

さらに、昭和三九年八月から昭和四〇年三月までの損益分岐点の実績が右のようなものであつたとして、被告人両名が経営について責任を負うようになつた昭和四〇年一月ごろの、被告人らのこの点に関する認識はどうであつたのであろうか。被告人らは、その検察官に対する各供述調書中で、経費が月一億三千万円程度かかつたうえ、事故や買戻しのために毎月四千万円ないし五千万円の支出が必要と見込まれたから、最低月一億七千万円程度の〈入〉が必要であると考えていた旨供述し、一方、当公判廷においては、とりわけ被告人卜部は、右一億七千万円というのは、支店長らに業績を上げさせるためいわゆるはつぱをかけたものであり、自分自身は当時、事故損金を見込んでも一億三千万円もあれば十分だと考えていたという趣旨の供述をしている。この点、前にも触れたとおり、(証拠略)によれば、買戻し、解約等により東京明治が販売物件を引き取つたときは、会計処理として、当該客に支払つた金額のうち原販売代金額相当部分を仕入、立替金もしくは前渡金勘定に立て、または前受金勘定から減額し、右買戻し等のため支払つた金額との差額を雑損勘定に入れるという操作をしていたことが認められる。そして、損益分岐点の問題すなわち損益計算の問題として考えるときは、経費となるのが客に支払つた買戻代金額全額ではなく、右雑損部分のみであることは理論上当然であるから、右のように昭和四〇年一月以後買戻し、解約等がかなり見込まれるとして、問題はこれに全額でいくら位要するかではなく、雑損額がいくら位増加するかということである。そこで、雑損額の推移をみると、(証拠略)によれば、別表二5雑損勘定月別内訳表のとおりであつて、昭和四〇年一月以降においては、同年六月には後記のように倒産直前のため異常に増加しているが、同年一月から五月までの月平均額は一九、一六九、四七六円(うち、キヤンセル、買戻し等によるものおよび支払延期利息によるものは、一一、六七二、一一七円)であり、別表二3経常経費およびいわゆる損益分岐点に関する一覧表で明らかなように同年一月から三月までの損益分岐点の算出には雑損額一四、四八四、二七二円がすでに計上してあるから、結局、事故、買戻し等による損失はこれを越えても五〇〇万円程度のことであつたものと認められる。ただ、後記のように〈特〉契約が実施されると、販売金額と買戻金額の差額は、損益計算において、右雑損と同じ経費とみる必要があるところ、これが当初計画において総額一億八千万円、年三割の利益を付するとしていたというのであるから、最大限月平均四、〇〇〇、〇〇〇円程度の損失(利息相当分)を見込む必要があり、これを加えて損益分岐点を算出すると、一三八、六七七、二八四円となり、従つて、右のような客観的に算出される数字と、(証拠略)によつて認められる支店長会議等における被告人らの発言とを総合すれば、被告人らの認識していた損益分岐点は一億三千万円ないし一億四千万円程度であつたと認めるのが相当である。

(四) ところで、以上のような〈入〉基準の損益計算では棚卸不動産すなわち在庫物件のことが考慮に加えられていない。〈入〉が生じるのは物件の販売が行なわれた場合だけであるから、仮にAという土地一、〇〇〇坪を一、〇〇〇、〇〇〇円で仕入れ、うち五〇〇坪を九〇〇、〇〇〇円で販売したとすれば〈入〉は四〇〇、〇〇〇円あがるが、残り五〇〇坪については〈入〉を生ぜず評価外におかれることになる。しかし、本来の損益計算においては右在庫となつた五〇〇坪を評価(棚卸)し、仮にこれが仕入代金五〇〇、〇〇〇円であつても現に三〇〇、〇〇〇円の価値しかなければ、結局一、〇〇〇、〇〇〇円の仕入に対し、九〇〇、〇〇〇円の売上と三〇〇、〇〇〇円の棚卸不動産で、差引二〇〇、〇〇〇円の売上利益という計算をすることになる。いいかえると、前記のような〈入〉基準の損益計算において黒字であつても、一方で仕入残の在庫が増加し、かつこれが仕入金額より価値の低いものであるならば、実質的には欠損を生じているという場合もあるということである。

そこで、この在庫の状況について検討すると、(証拠略)によれば、東京明治においては前記のように昭和三九年三月までは売上および仕入という勘定を持たなかつたため、もとより棚卸不動産が会計面に表われることもなく、同年七月の決算期を迎えてようやく各支店から支店の保有する在庫物件について報告させ、その後同年八月以降、後記のように在庫物件の販売の促進を図つたこともあつて、総務部業務課および経理部管理課(昭和四〇年一月以降は両者を統合した管理部管理課となる)において一応在庫物件の把握に努めていることが窺われるが、そこにおいても営業面からの把握と会計面からの把握とに混乱ないし混同がみられ、結局、東京明治においては最後まで果してどの位の金額の棚卸不動産を有し、仕入との関係で損益がいかなる状況にあつたかこれを自ら正確に把握していなかつたものと認められる。ただ、数字的に一応根拠のあると窺われる資料に表われた営業在庫すなわち営業的に把握された在庫金額は、別表二6営業在庫一覧表のとおりであつて、これによると、昭和四〇年一月一五日現在で八二五、五八一、四三四円(仕入未払金一八七、六二九、〇九五円)であり、同年五月三一日現在では一、〇四五、九二三、五六九円(仕入未払金四四〇、一五四、二九二円)である。しかし、これらの数字も、(証拠略)によれば、販売予定価格であつて、会計的に厳密な棚卸をした結果ではなく、また、昭和三九年八月ごろ、同年一〇月ごろ、同年一二月ごろ、昭和四〇年五月ごろなどにそれぞれ評価替え(いわゆるコストダウン)をしているものの、その評価については当時社内的にも一方では低く評価しすぎるとの意見、他方ではそれでも売れないとの議論があるなど、これが正確なものであるとはいいがたいことが窺える。

さらに、右在庫物件の内容については、右の各証拠によれば、後記のように昭和三九年八月以後にいわゆる正常業務の名の下に新規仕入をした八丈島営業所保有の在庫物件および仙台支店保有の在庫物件(とくに通称泉分譲地)を除けば、そのほとんどが仕入残、買戻し、解約等の原因によつて在庫となつた物件であることが認められる。してみると、前記第二、三で述べたように各支店とも他の支店で仕入れたものを売ることを好まない傾向にあつたことにも鑑み、これらの物件の計算上の価格はともかく、実際の販売の困難な状況にあつたことも窺え、その意味では在庫の増加により資産の増加を生じるよりむしろ実質的に資産の減少ないし欠損を生じていたということもできるものと考えられる。もつとも、被告人らは、この点に関して必ずしも正確な認識を有していたとは認めがたく、被告人廣川は、その検察官に対する供述調書中で、在庫の内容についてはほとんど知らなかつた旨述べ、被告人卜部は、その検察官に対する供述調書中では、在庫のうち一億五千万円ないし二億円位が月二千万円位のペースで回収できると考えていた旨述べ、当公判廷においては、二、三億円程度を月三千万円位のペースで回収できると考えていた旨述べるにとどまり、その会社の損益に対する影響についてはほとんど関心を払つていなかつたことが窺える。

三、以上において、東京明治が昭和三九年八月以後その営業により欠損を続けていたことが客観的に肯認されるのであるが、いうまでもなくある企業が計数上負債超過となりまたは欠損金を生じたからといつて、直ちに倒産に至るものではなく、逆に計数上黒字であるとしても、いわゆる資金繰りに困つて手形の不渡りを出すという事態の生じる例のあることも社会的に公知の事実である。そこで、次に東京明治におけるこのいわゆる資金繰りについて検討しなければならない。なお、(証拠略)によれば、東京明治においては、資金の運用について遅くまで計画的でなく、支払手形の期日を計画的に定める支払手形の受払帳〔押収してある手形受払帳三冊(昭和四三年押第一、七二五号の三一(イ)および(ロ)ならびに三六)〕が作成されたのは昭和三九年一二月二五日ごろ(その際、同年八月以降振出の分について遡つて記入した。)であり、資金計画を立てる資金課の設けられたのも昭和四〇年一月中旬ごろであり、それまでは、経営者らは極めて断片的な資金関係資料のほかは、日々の〈入〉の動きと各支店等が現に現金、預金等をいくら手持ちしているかを示す会計(出納)日報〔押収してある会計日報綴一綴(同押号の四七)および出納日報二綴(同押号の四八(イ)および(ロ))――会計日報と呼ぶか、出納日報と呼ぶかは時期によつて異なるが、実質は同一のもの〕によつていわば大福帳的判断をするほかはなかつた事実が窺われる。また、その意味で、昭和三九年七月以前については東京明治自体資金繰りに関する資料を持たないことが窺われるので、以下の検討も同年八月以後のものに限ることとする。

(一) まず、東京明治において資金として使用しうる財源についてみると、(証拠略)によれば、その営業型態が投資業務においても、前記のとおり仲介業務的色彩を持つ、すなわち仕入に自己資金を使うことをできるだけ避け、客に対して販売した売上のうちからこれを賄うというものであつたことが認められるから、逆にいうと、売上のうちの仕入額相当部分は、極めて短期の流用は別として、原則的に資金として使用しえなかつたものと認めなければならない。すなわち、東京明治の使用可能な資金の主たるものは〈入〉だけである。ところが、(証拠略)によれば、昭和三九年八月以後、後記のように自己資金を支出しなければならない解約、買戻等による物件の買取りが増加し、また一方で新規仕入においてもいつたん自己の完全な在庫としたうえで、造成などして長期間にわたつてこれを販売するという営業型態も生じて来たことが認められる。従つて、昭和三九年七月以前に自己資金を支出して在庫となつた物件を販売した場合はもとより、右のように販売と直接に関連なく資金を支出した物件を販売した場合には、売上金全額を資金として使用――もつとも仕入のための資金の手当は別途に必要となる――できることになるのも当然である。すなわち、東京明治において在庫販売と呼ばれるものがそれであり、在庫販売についてはその差益ではなく、売上金全額を資金として見込みうる。なお、東京明治においては、別表一の各貸借対照表によつても明らかなように、金融機関からの長期借入金はほとんどなく、(証拠略)によれば、業種的にそのような長期借入や社債による資金調達の余地はほとんどなかつたことが窺えるから、これらを資金繰りのうえで考慮する余地も存在しない。

そこで、右のような見地から入手しうる資金についてみると、(証拠略)により、別表三1資金一覧表の資金計欄のように昭和三九年一二月以後東京明治が入手した資金が算出される。同欄において同年八月から一一月までが空欄であるのは、右期間における在庫販売高の実数(差益は一応把握できる)を示す資料がないためであり、また、右表の記載上明らかなように各資料ごとに若干の誤差のあることも窺われるが、本件の判断にあたつては右程度の誤差はほとんど意味を持たず、無視することが許されよう。それはともかく、経理部で作成した資料である〈入〉及び在庫差額明細表〔前記資料綴(ただし、東京本社経理部のもの)一綴〕に基づいてこれをみる(昭和四〇年四月以後は右資料がないので他の資料のそれによる)と、昭和三九年一二月においては一九二、二七四、四八三円、同年一月には一一三、一八三、五九六円、同年二月には二〇八、〇三一、〇二二円、同年三月には一五四、八四七、九八二円、同年四月には七七、三三〇、三七〇円、同年五月には八二、六〇一、九二一円が新たに得た資金額となる。ただ、(証拠略)によれば、在庫物件に属するすなわち仕入代金を別途に自己資金で手当して仕入れた物件の一部である東京都八丈島八丈町所在の各物件(以下「八丈物件」という。)については、当時、各販売ごとに売上代金から相当する仕入原価を差引いて〈入〉を出す取扱いとなつていたことが認められるから、右資金一覧表上も、〈入〉の欄にこれが計上され、在庫販売高の欄には計上されていない結果になる。しかし、資金面からみれば、仕入に別途の資金手当をする以上は、その売上金額全部を資金として使用できるはずであり、その意味で各月とも右八丈物件の売上のうちすでに計上した〈入〉を超える金額が前記各資金額に加算される。このうち、一般の販売によるものは、その詳細を知る資料が存在しないので、その金額を認定することはできないが、〈特〉販売によるものは、右資金一覧表の八丈物件販売物件代分欄のとおりであつて、これを加算した昭和四〇年一月、二月および三月の資金量は、それぞれ一二一、五八一、一四六円、二六〇、四三一、七七七円および一五七、二三七、一二二円である。

(二) 次に、要資金額について検討するのに、右(一)で述べたとおり〈入〉に計上される売上の仕入代は、当該販売による売上代金のうちから支払われるべきものであるから、これについて別途に資金手当を考慮する必要がないのは当然である。一方、在庫販売高に対応するもの、すなわち〈入〉と関連なしに自己資金の支出を要する仕入代、買戻または解約による代金、造成費等については、在庫販売高全額が資金として使用できるのと裏腹の関係で資金手当を必要とする。さらに前記二(三)で述べた経費ももとより資金の必要な支出額である。

ところで、東京明治においても、右のような支出を一般と同様現金および手形で行なつているから、各月の支払手形の要決済額をみると、(証拠略)によれば、ほぼ同一の内容のことが認められるが、なお正確を期するため、当裁判所において直接に右手形受払帳等に基づいて、本表を作成した。なお、同表における費目の分類は、右手形受払帳および元帳の摘要欄の記載のみによつた)。一方、現金支出分については、いわゆる毎月の必要経費のほかに、(証拠略)によれば、表三4現・預金による物件代、買戻し代金等支払状況表のとおり、現金(またはこれと同視できる小切手等)で仕入代金、買戻費用等を支出していることが窺われるが、これらの支出が〈入〉と関連なしになされたものかどうかは必ずしも明確でなく、また、資金繰りのとくに問題となる昭和四〇年一月以降においてはほとんど無視できる金額であるので、資金収支のうえでは一応除外することとした。

そして、以上のような前提において、資金収支の関係をまとめたのが表三2資金収支一覧表である(経費の額は、押収してある資料綴(ただし東京本社経理部のもの)一綴(前記押号の七〇)によつた)。経費のうち同表注記の役員報酬等は、前記二(三)で述べたとおり損益計算においては計上すべきものであるが、現実に金員の支出を要しない以上、資金収支のうえではこれを除外して考えることができる。また、経費等のうちで当月手形を振出した部分は、もとよりその月には資金手当を要しないが、他方、他の月に振出した経費等に関する手形のうちで当月に決済を要するものが生じるから、この両者は一応相殺して考えることもできよう。結局、現金および手形を合わせて各月に必要とした資金の額は、右資金収支一覧表の要資金手当額のとおり、昭和三九年八月から一二月までは月平均一七〇、九七八、四二六円であり、昭和四〇年一月以降は、同月一三四、八一五、三五七円、二月一九一、七三六、九二九円、三月一九八、二三一、一〇六円で、右三ヶ月平均が一ヶ月一七四、九二七、七九七円、同年四月には一四八、六九七、九三七円であつたことが認められる(借入金を除いた分によつたのは、とくに銀行借入などにおいては利息の支払さえ続ければ、一般に支払を延期することが可能だからである)。そして、右要資金額と前記(一)で認定した各月に入手した資金額を対比すると、同表の資金の過不足額欄のとおり昭和四〇年二月を除いてはかなりの資金不足を生じていたことも明らかである。すなわち、昭和三九年八月以後は毎月少くとも一億七千万円以上の資金を必要とし、これに不足するときは、損益計算のいかんにかかわらず倒産の危険を生じていたことが客観的に明らかである。

(三) 東京明治がいわゆる手形の不渡りを出して倒産するに至つたのが、昭和四〇年七月三日であることは前記のとおりであるから、それではそれまでの間右のような資金不足をいかにして補つていたのであろうか。この点、(証拠略)によれば、昭和三九年八月一日以後、日々若干の増減を繰り返しながら全体として次第に手持現預金等が減少していることが認められる。その毎月末の状況をみたのが別表三5月別出納推移表であるが、これによると、同年七月三一日現在で二五九、八五四、七八一円あつた手持現預金等が同年一二月末には五七、二八〇、六三九円に減少し、昭和四〇年一月および二月にはいつたん増加したものの、同年四月以後急激に減少して、同年五月三一日には三三、一二九、七五三円の赤字(これは銀行預金が五八、九一七、四四八円借越しとなつたことによる)となるに至つていることが明らかである。従つて、前記(一)(二)で述べたような資金収支の状況と合わせ考えれば、この手持現預金が前記経常収支による資金不足を補つたものと認められるのは当然であろう。また、昭和四〇年一月には前月に対して三二、二〇二、二六〇円、二月には同じく一一〇、六七七、二二八円それぞれ増加しているが、これは前記(一)で述べたように〈特〉契約等による八丈物件の物件代相当額などが資金に加わつたためと推認できるのであり、その意味で、後記のように〈特〉契約が東京明治の経営に及ぼした影響はまさに大きなものがあつたことが知られるのである。

ところで、右のように手持現、預金を一時的な流用以上に、継続的に生じていた資金不足を補う資金源としたことは、長期的には会社の経営状態をむしろ悪化させる要因になつたものと認められる。すなわち、(証拠略)によれば、右月別出納推移表に記載されているとおり、右手持現、預金等は、自己資金のほかに〈入〉となつた売上金の仕入額相当部分(「売買代金」と表示のあるもの)、将来〈入〉となつた際に仕入代金として支払わなければならないもの(「客預り金」の当該部分)を含む(昭和三九年一〇月以降は、昭和四〇年二月を除いて、むしろ全額が右のような売買代金等である)と認められるところ、度々繰り返して述べるように〈入〉を生じさせる販売においては、客から受領した代金で地主に対する仕入代を支払うという前提で営業が行なわれているから、右のようにこれを他の支払に流用するときは、別途に当該仕入代の資金の調達を必要とし、そのためますます資金繰りが悪化し、さらには(証拠略)によつても窺われるように登記などの遅れのため客に不信感を与え、営業的にも販売が困難になるという事態を招くことになることは明らかである。

第四、〈特〉契約の実施およびその前後の状況

一、昭和三九年七月末に吉沢福義が東京明治の事実上の経営者となつてから、同年一二月末ごろ被告人両名が経営を引き継ぐに至るまでの東京明治の経営状態等は、(証拠略)によれば、次のようであつたものと認められる。

吉沢福義は、その就任前より投資業務が不健全であると主張し、同人とともに取締役として経営にあたつた久保真平、嶋野正男、小川伸治らも投資業務よりも実需に親しんだ者であつたため、投資業務とりわけ従来も禁止されていた再売り、買戻約束付の販売を厳しく規制するとともに、在庫物件の販売に重点を置くという方針を打ち出したところ、前記のように投資業務によつていわば非常に甘い汁を吸つていた営業社員らはこれに反撥し、その営業意欲を失つて、業績を著しく低下させた。加えて、投資業務は、前記のとおりそれ自体のうちに、利殖を目的とする客が短期間での高利潤を求めて、法律的に拘束力のある再売り等の約束が付されていると否とにかかわらず、販売を担当した営業社員らに再売りを求めることが多く、その再売りが困難になると営業が行き詰るという弱点を有していたから、前記第三、二で述べたように第二期に三〇億を超える〈入〉をあげたことがかえつて重荷となり、再売り、買戻し等を求める客が続出し、ますます営業が不振となつて来た。すなわち、昭和三九年八月から同年一一月までは別表二1業績一覧表のとおり毎月業績が低下する一方であり、平均して前記損益分岐点一億三千万円を辛じて維持するかこれを割るという状況にあつた。

とりわけ、横浜支店においては、第二期に秘密の支店保有金を作つて買戻資金を積立てるなどして、支店ぐるみ買戻約束付の投資業務を行ない、とくに東京都大田区大森地区居住の漁業組合関係者らにその得た漁業補償金で北海道所在の物件を買わせていたところ、昭和三九年八月ごろ、ふとしたきつかけからこれらの者による買戻し要求が一度に殺到し、騒ぎが表面化したため、会社として放置することができず、一部は他に転売して解決したものの、昭和三九年一二月ごろまでに別表三4現、預金による物件代、買戻し代金等支払状況表のとおり、五千万円以上の現預金を支出して右買戻要求に応じたほか、昭和四〇年一月一二日現在で振出残高一六二、五六二、一五六円に達する約束手形を振出してその処理を行なわざるをえなくなつた。のみならず、横浜支店以外の各支店においても、客からの同様の事故解約、買戻し等の要求が多数出されるに至り、前記のように吉沢ら経営陣がいわゆる正常業務を旗印にしたこともあつて、その要求を比較的容易に容れ、会社として右現、預金による物件代、買戻し代金等支払状況表のとおりこの関係においても五千万円を超える現預金を支出し(右横浜支店分と合わせ、少く見積つても一〇五、五二五、四九八円)、また、昭和四〇年一月一二日現在で振出残高三〇、〇九八、七五九円の約束手形〔押収してある資金支出関係綴一綴(昭和四三年押第一、七二五号の五八)中にある昭和四〇年一月一二日現在支払手形落月計区分一覧表による。なお、押収してある手形受払帳三冊(同押号の三一(イ)および(ロ)ならびに三六)によると、これら買戻、事故関係の約束手形の振出高は、横浜支店分、業務監査部扱いおよび他支店分合計ではほゞ一致するが、その内訳は、右に述べたところと若干喰い違つている。〕を振り出すなどした。このため、前記のように業績不振で欠損を生じつつあつた東京明治としては、資金的にも苦しさを増し、前記第三、三(三)で述べたように手持現、預金のうちの本来使用しえない部分まで使い込むに至つた。

さらに、吉沢ら当時の経営陣は、一方で投資業務を厳しく規制したため、それに代つて営業を発展させる手段として、前記買付委員会という制度を設け、当時いわゆる開発を始めていた東京都八丈島八丈町所在の土地を大量に買付け、また仙台支店をして仙台地区において宅地造成をした土地を売らせるためその買付けや造成工事を行なわせ、そのため、現預金だけでも前記現、預金による物件代、買戻し代金等支払状況表のとおり、昭和三九年一二月末までに八丈物件に対し合計一四九、六六七、八八二円の資金を支出し、また仙台支店に対しても三七、〇〇〇、〇〇〇円を送金した。この八丈物件に対する資金投下は、押収してある黒表紙帳簿(ただし、物件別売上仕入明細と記載のあるもの)一冊(前記押号の七六)によつて認められる別表四4八丈物件販売状況明細表のような八丈物件の販売状況に鑑みると、必ずしも不成功といいがたいが、自己資金を長期間固定化するという意味で投資業務ほど効率的でなく、また、仙台支店の行なつた宅地造成も資金の固定化という面で、東京明治の資金繰りをますます苦しくした。

吉沢らは、右のような業績低下および資金繰りの悪化を打開するため、昭和三九年八月ごろから会食費等の冗費の節約を図つたり、同年一〇月からは〈入〉の七〇パーセントの本社送金を義務づけ、また在庫販売の促進を支店に強く指示したりする一方、同年九月ごろには遠藤の預金を担保に銀行から三〇、〇〇〇、〇〇〇円借入れ、同年一〇月には大阪明治から四〇、〇〇〇、〇〇〇円借入れるなどやりくりをしていたが、なお経営は好転せず、さらに遠藤に援助を求めたり、また外部から資金を導入するため同人に東京明治の株式の公開を求めたりした。そのため、東京明治の業績が不振となつたのは吉沢らが理論のみ振り廻して営業を制約したためであると考えていた遠藤は、吉沢らの株式の公開の要求を同人らが会社を乗つ取ろうとしているものと思い込んで怒り、前記第一で述べたように同年一二月一〇日ごろ吉沢およびその一派と考えられた取締役らを退職させ、その後に被告人両名に経営を委ねるに至つた。

二、(一) 被告人両名が経営にあたるようになつてから〈特〉契約を実施するまでの状況については、(証拠略)によれば次のとおりと認められる。

被告人両名は、右のようにして東京明治の経営を委ねられた直後から、年の暮を控えて年末支払の資金調達に奔走させられることになつた。すなわち、一方では支店長会議などで支店長らに対し、資金繰りの苦しいことを話して在庫物件の販売に一層力を入れるよう督促するとともに、他方では手形の書替、銀行や遠藤一平からの借入れなどに努力し、別表三1資金一覧表のように在庫販売高五六、二八六、八五〇円をあげ、〈入〉が一三四、六一七、九八三円であつたのにもかかわらずかなりの収入をあげ、かつ不足分は銀行から二〇、〇〇〇、〇〇〇円、遠藤から三〇、〇〇〇、〇〇〇円借入れるなどして右昭和三九年末の資金調達には成功した。

次いで昭和四〇年一月に入り、被告人両名は、もともと一般的に業績の上らない一月にいかにして業績を向上させるか、また右のように悪化している経営をいかにして立ち直らせるかにつき両名で協議を重ねていたが、同月一四日ごろ、前記渋谷区中通り三丁目五〇番地所在名取ビル内の本社役員室において支店長会議を開催し、剣地幾寸計池袋支店長、松井達男青山支店長、河村八郎京橋支店長、小林幹雄青山北支店長、南安隆上野支店長、山本伸也こと山本初太郎渋谷支店長、丸茂徹志浅草支店長、木下善夫新宿支店長、野地弘一横浜支店長、雪村修一麻布支店長、斉藤力銀座支店長らを集め、落手形月別一覧表(前記昭和四〇年一月一二日現在支払手形落月計区分一覧表と同一内容のもの)を配付するなどして、二月および三月に約七千万円および約八千万円の手形を決済しなければならないので非常に資金繰りが苦しいこと、四月になれば決済すべき手形が減るので事情が好転するなどと説明したうえ、各支店において一層業績向上に努力すべきことを強く指示し、さらに業績向上に役立つ具体案があれば意見を述べるよう求めた。これに対し、剣地幾寸計が、かねてより同人の腹案としていた会社が計画的に行なう買戻条件付契約の実施を提案し、個々の社員が無制限に行なえば買戻しの実行が不可能を来すが、会社として限度額を定め、一定の利益額の基準を定めるなどしてやれば、利殖を希望する客にも喜ばれるし、会社も資金を入手することができて好都合であるという趣旨の説明をしたので、被告人両名もこれに興味を示し、さらに剣地に売契約と買契約を同時にするという契約の仕組みを説明させたり、各支店長にこれを行なうとすれば客にどの程度の利益を与えるか意見を求めたりし、支店長らから賛同的な意見が出された結果、被告人らが相談して、これを実行する決定を下し、さらに細部については続いて検討することとした。その後、被告人両名は、八丈物件の管理のためにそのころ設けた八丈管理委員会において右買戻条件付契約の対象とする物件の選定をしたり、同月一六日ごろ同都新宿区歌舞伎町一六番地所在の新宿支店において開かれた支店長会議、同月一九日ごろ前記本社内で開かれた支店長会議などにおいて、支店長らに契約の条件、方法その他細目について種々検討させて、結局、契約の対象としては八丈島管理委員会で作成した社有地一覧表〔押収してある在庫物件台帳(前記押号の一九)在中の社有地一覧表と同一内容のもの〕に記載されている八丈物件とりわけ完全社有地となつているものを原則とすること、買戻期間は六ヶ月ないし一年とすること、買戻金額は販売金額に年三割の割合による利益を付した額とすること、契約書としては顧問弁護士木戸口久治の作成した土地売買契約証書用紙および土地再売買予約証書用紙を使用することを原則とするが、支店長の裁量により通常の土地売買契約証書用紙を用いて、日付を多少ずらせた売契約と買契約を同時に結ぶという方法をとつてもよいこと、一口を五〇〇万円程度の大口の契約とすること、契約は支店長少くとも部課長以上で担当し、一般の社員には行なわせないこと、買戻額の総枠を一億八千万円とし、月二千万円程度に分散させること、買戻しについての最終責任は本社で負うこと、なお買戻しのための手形は原則として振出さないことなどと決定し、支店長らにその実施を命じた。なお、右決定に基づいて締結された契約は、東京明治において〈特〉契約と呼び慣わされた。

その後、各支店長らは、その支店の営業社員らを介して、昭和四〇年一月二一日ごろから、前記「争点」記載のように各〈特〉契約を顧客らとの間で締結したが、被告人らは、被告人卜部が実際の担当者となり、社長室の高橋早苗らを手伝わせて、同一物件に二重に契約が締結されることがないよう各支店間の対象物件の調整をとつたり、電話報告に応じて買戻期日の月別の分布を調べたりして、全体の統轄を行なつていた。そして、同年二月一九日ごろ、契約額が一応前記総枠に近づいたことを知つた被告人らは、被告人卜部が各支店長に電話で〈特〉契約の中止を指示するとともに、高橋をして同日付の書面で同月二〇日をもつて〈特〉契約の実施を打ち切る旨および〈特〉契約に関する一切の報告を同月二二日までに行なうよう各支店に指示させた。一方、各支店長らは、右指示に従つて〈特〉契約の報告を行なうとともに、その契約書等を本社に送付する措置をとつたが、右指示においてもあらかじめ被告人卜部の許可をえて商談を進行させているものは、右中止期日後も〈特〉契約として認めるという趣旨を含んでいたので、これに従い、右期日後もなお若干の〈特〉契約を締結した。なお、各支店長らは、右〈特〉契約の実施にあたり、おおむね被告人らの指示した前記内容を守つたが、契約の担当者を部課長以上に限るとした点については、一般の営業社員らにこれを行なわせた例も多く、また、一口を五百万円以上とするとの要綱は別紙〈特〉契約一覧表記載の各契約内容からも明らかなようにほとんど無視された。

(二) ところで、現実に締結された〈特〉契約についてここでもう一度検討しておこう。まず、別紙〈特〉契約一覧表記載の各契約が各支店長(一部に代表取締役名義を用いられたものもある。)と客との間で締結されたことは前記「争点」で述べたとおりであるが、(証拠略)によれば、〈特〉契約一覧表その一、その三およびその四掲記の各契約については、支店から本社に対する書面での報告、売買契約書等の本社への送付、本社で作成した〈特〉契約に関する各一覧表への記載のいずれか、またはその全部が存在するのに、〈特〉契約一覧表その二、その五、その六およびその七掲記の各契約については右のいずれも存在せず、その意味で、これらの契約が果して前記被告人らの指示に基づく正規の〈特〉契約かどうかについては疑問を生ずる。

次に、その買戻期日の月別分布をとりまとめてみると、(証拠略)によれば、別表四1買戻条件付土地販売契約買戻月別金額一覧表のとおりとなり、いずれの金額を根拠としても、必ずしも月二千万円の枠は守られていないことが明らかである。とくに昭和四〇年八月と昭和四一年二月が多く、三千万円ないし四千万円の多額にのぼつている。しかし、総枠については、資料によつて若干の差はあるとはいえ、昭和四〇年四月一五日以前の成約分としては一応一億八千万円の枠が守られていると認めることが可能である。

さらに、各〈特〉契約の具体的内容およびその対象物件の内容等について検討した結果は、別表四2および3の買戻条件付土地販売契約買戻しまでの月数別表(八丈)、同(駒里)および同総括表のとおりとなる(対象物件とされた八丈物件の内容は、前記のように前記社有地一覧表記載の物件がこれにあてられているので、同表に基づいて検討した)。そして、これによると、第一に、〈特〉契約は、特定の在庫物件とかなり密接に結びつけられて契約されており、別表四4八丈物件販売状況明細表によれば一般にも分譲販売中であつたことが明らかな大字大賀郷字黒金土所在の物件および大字中之郷字上休戸(字下休戸および大字末吉字菊でいを含む。)所在の物件を除けば、明らかに特定物件の販売という外形を有していることが認められる。第二に、買戻金額に付した客に対する利益は、八丈物件については、若干のばらつきはあるとはいえ、月二分五厘(年三割)という率をさほど上下せず、一方、北海道千歳市駒里所在の物件を対象としたもの(全部横浜支店が締結したもの)については、二件を除き、最低月一分余から最高五分までという上下がある。第三に、買戻しまでの月数は、右と同様、八丈物件を対象とするものにおいては、六ヶ月から約一三ヶ月(ただし、これは契約日を基準としたもので、客の最終残金支払日を基準とすれば、ほぼ一二ヶ月後となる。)であるが、駒里所在の物件を対象とするものにおいては、六ヶ月および一二ヶ月であるものもある一方、二ヶ月とするもの一件および三ヶ月とするもの三件がある点、前記計画と喰い違つている。第四に、八丈物件の〈特〉契約の内容と前記八丈物件販売状況明細表により明らかな八丈物件の一般の販売契約の内容とを対比すると、〈特〉契約の販売金額(坪単価)および利益率(〈入〉額の売上総額のうちに占める比率)と一般の販売契約のそれらとにほとんど差異を見出すことができず、その意味で、〈特〉契約において、特段に値下げをしたり〈入〉を低くしたりして、当該物件の再売りに備えた形跡は窺われない。

以上要するに、〈特〉契約においても、八丈物件を対象とするそれと駒里所在の物件を対象とするそれとでは内容的にかなり差異があり、八丈物件を対象とするものに関する限りは、一定期間後に一定の利益率により算定された金額で買戻すことが会社によつて確約されている点を除けば、一般の土地売買契約と外形的になんら異なる点がないと認められるのである。

三、〈特〉契約実施後倒産に至るまでの東京明治の経営状態は、(証拠略)によれば、次のように認定できる。

〈特〉契約の実施の結果、昭和四〇年二月には、前記第三記載のとおり〈入〉を基準とする損益計算においても利益を生じ(同年一月における〈特〉契約による〈入〉は、一三、九九九、九五〇円であり、同年二月におけるそれは、六六、〇八一、六六三円であり、また同年三月におけるそれは二、六一〇、八〇〇円である)、資金繰りの面でも単に当月の要資金手当額を上廻る資金を入手したにとどまらず、減少の一途をたどつていた手持現預金が一挙に昭和三九年七月末のレベルに回復するという効果を生じた。そして、昭和四〇年三月においても、〈入〉自体は一三〇、二六二、五一一円(在庫販売によるみなし〈入〉を加算すれば一三六、三二一、三一一円となり、またこれより〈特〉契約によるものを差引くと一三三、七一〇、五一一円となる)と前記損益分岐点に達する水準の収入を上げたが、資金収支としては、要手形決済額が借入金を除いても一〇〇、五五八、一九三円の巨額になつたため、四〇、九九三、九八四円の不足を生じるに至つた。なお、同年三月以降に現実に決済を必要とすることとなつた支払手形の額は、別表三3支払手形費目別振出・期日一覧表によつても明らかなように各月一億円を超えたが、前記昭和四〇年一月一二日現在手形落月計区分一覧表において把握されていた決済額にいかなる費目のいかなる時期に振出された手形が加わつてそのような額に達したものかみるのに、(証拠略)によれば、物件代支払および事故、買戻し等のための手形の振出状況の明細は別表三6支払月別支払手形振出状況一覧表および別表三7物件代等支払手形振出状況一覧表のとおりであつて、結局、これら物件代支払(とくに八丈物件の仕入代)および事故、買戻し等のための手形が依然として増加する傾向にあつたことが認められる。もつとも、右表において、三月分、四月分および五月分の総額がそれぞれ七七、二三一、三一四円、七四、〇〇〇、七七二円および七〇、九四五、〇三一円となつていること、昭和三九年一二月までに振出した手形の多少に応じて昭和四〇年一月以降の振出額の多少が定まるようにみえることなどに鑑みれば、被告人らは、その振出をかなり計画的に行なつていたことも窺えるといわなければならない。

次いで、昭和四〇年四月に至ると、同月初ごろ大阪明治の今村繁次社長が詐欺の容疑で警察に取調べられるという事態が発生し、これを新聞報道で知つた顧客とりわけ従来の得意先であつた投資客らの間に新規購入を控えたり、従来登記を要求しなかつた物件について登記を求めたりするなどかなりの動揺を生じ、また、東京明治の営業社員らも、そのころ経営状況の悪化していることをかなり深く認識し始めたことも手伝い、右事態の発生により客ら以上に動揺し、販売意欲を低下させ、前記のようにもともと業績低下の傾向にあつた業績が〈入〉六三、二四六、八三一円と最低に下がるに至つた。これに対し、被告人らは、従来「明治不動産株式会社」と大阪明治と同名であつた社名を「東京明治不動産株式会社」と変更すると発表して、対外的に大阪明治と別会社であることを強調し、対内的には綱紀を正して業務に専念するよう通達を出し、会社員一致で危機を乗り切るよう求めるとともに、同年五月末ごろまでに業績給の支給停止、固定給の切下げ、歩給の改定、事務社員の営業社員化、企業規模の縮少と合理化など、業績向上や経費節減のため施策を種々打ち出した。しかし、右四月の業績低下による経営状態に対する打撃は決定的で、とりわけ資金繰りは極度に悪化し、同年五月に入つてからは手形の書き替えに日々追われるという状況に至り、銀座支店および浅草支店を閉鎖したり、さらに企業規模の一層の縮少を図ることや会社更生法の適用の可能性まで検討した。

この間、被告人廣川は、前記のように直接には株式の公開の問題で遠藤と衝突を生じたため代表取締役を辞任し、公式には昭和四〇年六月八日に被告人卜部が遠藤一平の指名により代表取締役に就任し、当時の支店長らを取締役として、いわゆる集団指導方式により経営を引き継ぐことになつた。しかし、絶対的な資金不足は、いかんともしがたく、外部からの資金導入もその可能性がなく、同年六月一杯は人員整理、在庫販売の奨励などによつてなお企業の継続を図る努力をしたり、手形の書替えによつて辛じて営業を続けていたが、同年七月一日満期の手形の資金手当が不能となり、同月三日不渡りが確定して倒産するに至つた。

第五、結論

以上、第一ないし第四においては、東京明治の成立から倒産に至るまでの経過、組織、経理内容、財政状態や営業状態の推移、〈特〉契約の実施の経過、その具体的内容、被告人らの関与の態様などについて詳細認定したが、それでは本件各〈特〉契約は果して詐欺罪を構成すると考えるべきであろうか。これを結論するには、右認定の諸事実を基礎に、先に「争点」として掲げた諸点とりわけ被告人らの認識等についていま一度検討しなければならない。

一、別紙買戻条件付土地販売契約(〈特〉契約)一覧表その一、その二、その四およびその五記載の各契約について

(一) 別紙右〈特〉契約一覧表その一、その二、その四およびその五記載の各〈特〉契約については、まず各契約の契約時にその本質的要素である買戻条件の履行できないことが客観的に予測される状況にあつたかどうか考えると、この点はたしかに、被告人らが前記剣地池袋支店長の提案を受けて〈特〉契約の実施を決定し、各支店長らをしてその実行にあたらせ、前記第四、二、(一)認定のようなその打切りの指示を出すまでの時点、すなわち昭和四〇年一、二月ごろ、東京明治が財政的とりわけ資金収支の面で破綻に瀕し、そのまま放置するにおいては容易に倒産に至るべき客観的状況にあつたことは、前記第三および第四認定のとおり認められ、また、営業的に昭和三九年八月を境として、同月以後はそれ以前に比して著しい業績の落ち込みを見せ、営業社員らの販売意欲も低下して来て事業活動が不活発となつていたことも、前記第四認定のとおり客観的に肯認できる。そして、現実の結果として生じた倒産の原因についても、本質的には、外的要因にあるというより、むしろ東京明治がその業務の基本構造において営業活動にいつたん破綻を生じ始めると破綻を自ら大きくする性格を内在していたことにあると認められる。すなわち、投資業務においては、顧客は短期間で高利潤を生じる再売りが可能であることを期待して東京明治と取引するのであるから、その再売りないし会社による買戻しが予期どおり実行されないときは、当該取引自体についてより強硬な態度をとるかどうかは別として、再度の取引については極めて慎重な態度をとることになるのが一般であろう。一方、その再売りの状況は、(証拠略)によつて認められる別表四5「八丈物件の再売状況を表わす事例について」に掲げた例からも窺われるように、東京明治の側からみれば当然のこととして再売りのためにする仕入の価格が原仕入価格よりも著しく高くなるから、これによる利益率すなわち〈入〉の額が一般の取引に比し著しく低くならざるをえず(同表の八丈島八丈町大字大賀郷字黒金土の例においては、一般の販売の利益率が四七・六八パーセントであるのに対し、同種物件でも再売りにおいてはこれが一四・六八パーセントと約三分の一に下がつている)、〈入〉を唯一の収入とする営業社員らとしては同じ労力をかけるならば収入の少ない再売りよりも新規物件の販売に熱を入れるのも当然であり、結局顧客の側からすれば再売りがかなり困難であつたものと認められる。実際にも昭和四〇年一月一六日以降においては、(証拠略)によれば、別表五「昭和四〇年一月一六日以降仕入物件販売、仕入、販売利益明細表」記載のとおり、販売総金額四一二、〇三四、四一〇円のうち再売り分はわずかに四、七九四、〇〇〇円にすぎないことが明らかである。従つて、このようにもともと不利な条件のある再売りは、営業活動が不活発となればなるほど困難となつていくことも必然であるから、先に述べたように再売りが順調になされることを前提としていわば商売の成り立つ投資業務は、いつたん業績の低下が始まるとかえつてこれに拍車をかける役割を果たし、結局は行き詰らざるをえないという性格を本質的に内在していたものといわざるをえない。そしてその意味で、東京明治が前記認定のとおり第二期に投資業務により異常に多額の業績を上げたことが、再売りのための大きな負担を残したという意味でむしろ倒産の遠因を作り、これが昭和三九年八月から同年一二月まで経営にあたつた吉沢福義らによつて余りにも強い急ブレーキがかけられて右のような本質的な弱点が露呈化するに至り、さらに昭和四〇年四月における大阪明治の問題の表面化を契機にこれが一層顕著となつて、ついに早期の倒産に至つたものと認められるのである。ただ、昭和四〇年一月一六日ごろの東京明治の財政状態および営業状態は、前記第三および第四で詳述したところから明らかなように、倒産直前の同年六月ごろのそれと異なり、金庫に一円の現金もないという切端つまつた状況にあつたのではなく、仮にその後営業が活発に行なわれるようになれば十分に立ち直る余地も残されており、その意味で倒産が確定的に予期されていたとはいうことができない。さらに現実の倒産の直接の原因も、これが昭和四〇年四月に生じた大阪明治にかかる刑事事件の報道に基因する顧客の側の信頼感の喪失とこれを反映した営業社員らの販売意欲の低下にあることは、別表二1「業績一覧表」記載のとおり、同月の〈入〉額が六四、九四四、二三一円と前月の〈入〉額一三六、三二一、三一一円(〈特〉契約分を差し引けば、一三三、七一〇、五一一円)に比して二分の一以下に激減している事実のみによつても肯定できる。

(二) それでは、被告人両名は、前記昭和四〇年一、二月ごろ東京明治の経営状態についてどのような認識を有していたのであろうか。この点まず、被告人両名が当時東京明治の危機的状況にあること、すなわち〈入〉によつて表わされる業績が極めて低下して来ていること、資金繰りがそれにも増して悪化し、昭和四〇年一月末現在で三億八千万円余の振出残高に達していた支払手形の決済のための資金手当ができなければたちまちにして倒産に至るであろうこと、また、在庫の増加が営業的にも資金的にも会社の経営を圧迫するのみならず、なお事故、買戻し等による在庫の増加が見込まれることなどについて、十分認識のあつたことは、前記第四認定のとおりである。さらに、損益分岐点に関し、毎月のそれが一億三千万円ないし一億四千万円であることを被告人両名とも知つていたことは前記第三、二、(三)認定のとおりであり、業績不振にあえいでいた当時としてはこれが最低の生命線であることも知悉していたはずである。また、資金繰りの面では客観的に毎月一億七千万円以上の資金手当を要すると見込まれたことは前記第三、三認定のとおりであるところ、この点についての被告人両名の認識をみると、前記第三、二、(三)で述べたように昭和四〇年二月六日ごろ社長室において作成された経常経費見込額調表〔押収してある同表一枚(前記押号の五七(ロ))〕にはその後実績となつた経費の額がほぼ正確に把握されていたこと、一方昭和四〇年一月以降の支払手形の振出においては前記第四、三認定のように同年二月以降の各月の手形(経費分を除く。)の要決済額を平均七千万円とするよう配慮していることなどの事実が窺われるから、これらの事実と(証拠略)を総合すれば、一応は毎月一億七、八千万円の資金を必要とするとの認識を持つていたものと認めなければならない。ただ、被告人両名とりわけ被告人廣川は、前記第三で述べたように東京明治の経営状態ないし財政状態について計数的に正確に把握していたとは窺われず、(証拠略)によれば、法人としての東京明治の創業以来ほとんどその全期間にわたつて経理を担当して来た被告人卜部においてすら、会社の正規の計算書類に余り関心を示さず、会計原則に準拠した月間合計残高試算(月間損益計算)も経理部において全く試みに行なわれていたにすぎず、結局、計数的に被告人らが把握していたのは、業績として報告される〈入〉、出納日報(会計日報)で日々示される全店の手持現、預金および緊急に手当を要する資金額、資金課などの作成する支払手形の期日表〔例えば、押収してある資金支出関係綴一綴(前記押号の五八)中にある昭和四〇年一月一二日現在支払手形落月計区分一覧表〕等の資金関係資料で報告される手形の振出残高の推移などにとどまつたものと認められる。

さて、このように被告人両名が東京明治は月々前記損益分岐点以上の〈入〉をあげ、かつ、一億七、八千万円以上の資金手当をすることができなければ爾後立ち行かなくなることを知つていたものと認められるとするならば、次の問題は、被告人両名が営業的に右のような所要の収益ないし資金を入手できると考えていたかどうかである。この点まず、(証拠略)によれば、昭和四〇年一月一六日ごろ同月中の〈入〉額が一億円の水準にも達しそうになかつたこと、同年二月および三月の支払手形の要決済高がそれぞれ八千万円前後あつて、要資金手当額が二億円近くに達し、しかもこれを通常の営業活動によつては調達できる見込みのなかつたことなどを知つていた事実は明らかであり、被告人両名が〈特〉契約という一種の非常手段をとることを決意したのもまさにそのためにほかならない。しかし、同年三月以降の営業見通しをいかに考えていたかについては、必ずしも明確でない。一方において、被告人両名や支店長らは、その検察官に対する各供述調書(証拠番号(略))中では、当時資金不足から営業はますますやりにくくなり、社員らも意欲を失い、とくに従前の投資業務によつて生じた事故、買戻し等の要求の殺到、そして不良在庫の激増などによつて、三月以降業績が回復するどころか、損益分岐点(ただし、右供述部分ではこれを約一億七千万円としている。)に達する収入を得ることも到底望みえなかつた旨のほぼ一致した供述部分がある。しかし、右供述部分については、被告人両名、支店長らともに公判期日では、これが検察官の強度の誘導に基づくものであつて、真実に反する旨述べ、たしかに次のような諸点に鑑みれば、その信憑力には多大の疑問があるとしなければならない。すなわち、右各検察官調書については、例えば、〈特〉契約の性質について、これらの調書では契約の形式などについて全く触れぬままこれが借金であるという趣旨の供述で統一されているところ、なるほど一般に買戻条件付(再売買予約付)土地売買契約が経済的には担保物件付金銭消費貸借契約と同一の効用を有するとされているにせよ、〈特〉契約が前記第四認定のとおり法形式的には明確に特定物の売買としての買戻条件付(再売買予約付)土地売買契約であることも明らかであるから、なぜにこのような形式を採用したのか、販売した土地の担保価値についてどのように考えていたのかなんらかの説明をするのが自然と考えられるのに、これらの点についてなんら右調書中の供述で触れられていないのは不可解である。また、とりわけ各支店長の検察官に対する供述調書においては、東京明治の昭和四〇年に入つてからの営業不振の実態を表わす事例として「つなぎ販売」のことに言及したものが多いところ、これらの調書では、当時の営業は資金不足から「つなぎ販売」が多く、これによつては利益も薄かつた旨述べられているのであるが、別表五「昭和四〇年一月一六日以降仕入物件販売、仕入、販売利益明細表」記載のとおり、昭和四〇年一月一六日以降の営業においては通常の販売金額が合計三三八、六二六、八一〇円であるのに対し右の「つなぎ販売」は六八、六一三、六〇〇円にすぎず、また、「つなぎ販売」によつて得る利益は利益率三九・九パーセントであり、これに比し通常の販売のそれの方が三〇・五パーセントと利益率が低いことが客観的に認められ、右供述部分はこのような客観的事実と反している。とすれば、なぜ支店長の多くがこの点について事実と喰い違う供述を一致してしたのか大いに疑問であり、これが捜査官側の主観によつて影響されたとの疑いもあながち根拠のないことではあるまい。他方、被告人両名および支店長らは、公判段階においては、右の捜査段階における供述と全く正反対に、昭和四〇年三月以降むしろ営業が上昇するという見通しを持つていた旨強調し(証拠番号(略))、とくに被告人両名は、昭和三九年八月から同年一二月までの間に業績が落ち込んだのは、吉沢福義らの経営方針によつてことさらに営業活動が抑制されたためであり、東京明治の持つ実力からすれば同年四月以後は一億七千万円から二億円に達する〈入〉を月々確保することは容易であると考えていた旨供述している。もつとも、右のような供述も、結果として表われた数字に供述を合わせたり、あるいは自己が刑事訴追を受けることのなくなつた支店長らにおいては元社長である被告人らをいわば庇い立てしたりしている疑いがないではなく、必ずしもこれを全面的に信用することはできない。とはいえ、前記第三認定のとおり、東京明治が第二期においては月平均二五四、八三一、九〇一円の〈入〉をあげ、昭和三九年八月から一二月までの間においても月平均一三五、五八五、二一三円の〈入〉があり、かつ、昭和四〇年三月ですら〈特〉契約分を除いて一三三、七一〇、五一一円の〈入〉があつた事実が明らかであるところ、一方、被告人らは、前記第四認定のように投資業務を抑制した古沢福義らをいわば見返して東京明治の本来の面目を取戻す役割を与えられて経営を委せられた者であつて、(証拠略)によれば、被告人らの現実にとつた経営方針も、いわゆる吉沢時代の正常業務も一部引き継いだものの、投資業務を抑制するよりこれを積極的に推進する態度をとつたことが認められ、これらの事実に鑑みれば、被告人両名とも前記(一)で述べたような投資業務の本質的な弱点について必ずしも十分な認識を有していたとは窺われないから、被告人両名が再び投資業務を強力に推進することによつて、第二期当時の隆盛をとり戻すことまでは不可能としても、右昭和三九年八月から同年一二月までの間の水準を上廻る業績をあげうると考えていたと認める余地がないでもなく、その意味で被告人両名の前記のような公判段階における供述をすべて虚偽と断じることも許されない。なお、この点については、(証拠略)によれば、支店長らが支店長会議で翌月の業績見通しを報告する際には、合計二億円を超える〈入〉見込額を申告していた事実が認められる。そして、右各証拠によれば、これらの見込額が各支店長とも前記のような業績競争に基づく競争意識からかなり水増しをした申告をするため正確なものではなく、被告人らもそのことは十分知悉していたものと認められるが、これらの数字を全く無視していたとも窺われず、むしろ右見込額にある程度頼つて資金計画などを立てていたことも認められるから、その意味では右事実も、被告人らが昭和四〇年三月以降全く経営が成り立たないほど営業が不振となるとは考えていなかつた旨の被告人らの公判段階における前記供述の一つの支えとなるであろう。

さらに、被告人両名が昭和四〇年一月に〈特〉契約の実施を決意した際、被告人らがこれを積極的な不正の目的のために利用する意図があつたかどうかであるが、そのような意図は、本件全証拠によるもその存在を認めるにたりる証拠はない。すなわち、〈特〉契約の実施にあたつては、前記第四、二認定のとおり、各契約において目的物件が一応特定されていること、いわゆる二重売りを避けるため被告人卜部自ら各支店間の調整を図つていたこと、契約総額を一億八千万円にするとの計画を立て、予定額に達すると打ち切りの指示を出していること、買戻金額を月々二千万円とするとの計画については予定どおりには行なわれなかつたが、一応買戻金額の月別配分についても配慮を払つていることなどの事実が認められるところ、被告人らが全く一時的に不正な資金をいわば掻き集めるための単なる口実として〈特〉契約を利用したのであれば、右のような細かい配慮はこれに必要なかつたものといわなければならない。その意味で、右のような内容の計画は、むしろ買戻契約の履行を前提とするが故に立てられたものと認めることも可能である。なお、買戻契約を完全に履行する場合には、別表四1「買戻条件付土地販売契約買戻月別金額一覧表」記載のとおり、昭和四〇年八月および昭和四一年二月にはそれぞれ四千万円ないし五千万円、同年三月には約三千万円、昭和四〇年一一月および昭和四一年一月には各約二千万円、昭和四〇年九月および同年一二月には各約一千万円の買戻資金が必要となり、前記認定の毎月の要資金額一億七千万円にこれが上積みされることになるが、右程度の金額の資金調達がその際の毎月の〈入〉額の水準において昭和四〇年三月までのそれを保持し続けていた場合にも絶対に不可能であつたかどうかは、これまで述べて来たところから明らかなようにこれをいずれとも断定する根拠はない。次に、被告人両名の不正意図として、被告人らが東京明治の計画的な倒産を目論んでいたかどうかであるが、この点もこれを否定的に解すべきことにいささかも疑いを抱く余地がない。むしろ、(証拠略)によれば、前にも触れたように、被告人らは東京明治の経営を担当するようになつて以後、一方において投資業務の推進、八丈物件等の新規仕入、在庫物件の販売等業績向上のための各種施策を打ち出し、また一方においては経費削減、冗員の整理、管理組織の合理化などを図つて、経費削減などについては一応の実績をあげ、さらに昭和四〇年四月以後においても、企業規模の縮少は考慮しながらも、全体としての東京明治の存続を図るため種々の手段を講じていることが認められるから、被告人両名とも倒産という事態は防止し、企業の存続を図りたいという積極的意思のあつたことを肯定しなければならない。さらに進んで、被告人らがなんらか私的な利欲を図る意図があつたかどうか検討するのに、この点についても一片の疑いすら抱かせるにたりる証左もない。逆に(証拠略)によれば、いわゆる雇われ重役にすぎない被告人らとしてはある意味で当然取得してよい給料に相当する報酬すら全額辞退し、若干の私財をも東京明治のため投入している事実が認められる。すなわち、被告人らが東京明治を自己の欲望のためにいわば喰いものにしたり、〈特〉契約によつて自己の私腹を肥やしたりした事実も、またそのような意図もなかつたことが明らかである。

(三)  そこで、以上認定の事実に照らし考えれば、本件における最大の問題は、被告人らに詐欺の犯意があつたということができるかどうかである。すなわち、右(一)および(二)で述べたことを要約すると、別紙買戻条件付土地販売契約一覧表その一、その二、その四およびその五掲記の各〈特〉契約については、その契約した昭和四〇年一月二〇日ごろから同年三月二五日ごろの時点において、東京明治が客観的に財政的、営業的に行き詰り、容易に倒産に至る可能性があり、〈特〉契約の本質的要素である買戻契約が履行すなわち年約三割という利益を付した金員の返還の約束が実現できないというおそれもかなり大きかつたこと、そして被告人両名とも、東京明治のその際の事態については十分認識し、右買戻契約の履行についても東京明治が倒産するなどしてこれが不能となるおそれのあることは知つていたこと、ただ被告人らとしてはそのような違約の結果の発生を自ら意図していたのではなく、契約履行の意思もあり、事業継続のための努力を重ねていたことなどの事実が認定できることに帰するところ、本件の場合もとより被告人らに詐欺の確定的犯意があつたということはできないが、右認定のような事実関係のもとで未必的故意があつたと認めることができるであろうか。

この点たしかに、本件〈特〉契約のような場合、一般的にいつて契約者らは前記認定のような利殖目的の投資客であるから、買戻契約の履行が確実に期待できないとすれば契約の締結に応じなかつたであろうことは明らかであり、その意味では右のような未必的予見を有しながらこれを告げなかつた被告人らに未必的故意があつたと解する余地がないでもない。しかしながら、本件のように一個の事業(企業)の遂行過程で行なわれた経済上の取引について、その債務の不履行が事前に予測された結果であるとしてその事業経営者の詐欺罪の成否が問題となる場合、その取引の際経営不振の状態にあつて場合によつては倒産もありうると予見していただけで、直ちに詐欺の未必的故意があるとすることは、いわば発生した結果によつて犯罪の成否を決定するにも等しく、また現実の経済社会の実情にも合致しない。すなわち、企業経営者としては例えば資金繰りが窮迫し、一歩誤れば倒産という事態に至つても、企業の存続のための努力を続けようとすればするほど、その事業に必要な取引行為を続けざるをえず、そしてその取引にあたつて倒産の見込みのあることを取引の相手方に告げることは自ら信用を低下させて事態を悪くすることになるから、あえてこれを秘匿して取引に臨むというのが一般であり、これがすべて理論上は詐欺罪に問擬されるということになれば、いつたん経営不振となつて倒産のおそれの生じた企業はほとんどすべてその企業存続のための努力を放棄せざるをえなくなるおそれがある。従つて、右のような場合には、企業経営者らが倒産による債務不履行の可能性を認識していても、なおそのような事態を避けられる見込みが相当程度あると信じ、かつ誠実に契約履行のための努力をする意思のあるときは、いまだこの点について欺罔の意思はないものといわなければならない。そしてその意味で、本件の場合も、被告人両名が前記(二)認定のとおり昭和四〇年四月の決定的な業績低下が生じるまではなお東京明治の立ち直りに希望を持ち、買戻条件を履行する意図のもとに〈特〉契約を締結させたと窺える以上は、詐欺罪の成立に必要な故意が未必的にもないと認めざるをえないのである。

なお右のようにいいうるのは、あくまで当該取引行為がその事業の正当な取引と認めうる場合に限られるのはもとよりである。例えば物品の仕入に藉口して、直ちに他にダンピングして転売する意図であるとき(いわゆる取込詐欺)などは、そのような意図があることから違法性が肯定される。とすれば、本件の場合も、〈特〉契約が東京明治の営業活動としては異常な型態のものであつて、これを資金獲得の手段として行なつたことは前記第四認定のとおりであるから、そのような特殊な取引を行なう以上は契約の履行についていささかでも不安のあることは許されないというべきであろうか。この点たしかに〈特〉契約が特殊な型態の取引であることは明らかであるが、買戻条件付(再売買予約付)土地売買契約はそれ自体としてなんら違法な契約ではないし、さらに各契約において契約上――(証拠略)によれば、すべての契約について明確な内容の契約書が作成され、客にも正本が交付されていることが明らかであるから、被告人らにおいてその内容を相手方にことさら了知させないよう工作した形跡など窺われない以上、客として契約書に記載された内容を知らないという主張は許されない――客は代償として特定の土地の所有権を取得し、これにより自己の債権を担保することの約束が成立しているところ、その目的物たる土地も、別表四2「買戻条件付土地販売契約物件別・買戻しまでの月数別表」記載のように現実に存在し、その客観的評価は別として、東京明治の通常の営業上の評価としては右担保としての役割を果たすだけの価値があるものと考えられていたことが認められるから、これが東京明治の正当な取引に属さないということもできない。また、〈特〉契約は、客の側としても前記のとおり年利益率約三割という通常の取引では取得できない高利廻りの利益を期待する取引であるから、経済取引の常識として、これに若干のリスクの伴うことも予期すべきものであり、その意味でも被告人らがただ単に契約の不履行となる可能性のあることも認識していたというだけでは、被告人らに欺罔の意思があるということはできないのである。

(四)  以上から結局、別紙買戻条件付土地販売契約一覧表その一、その二、その四およびその五記載の各〈特〉契約については、客観的に生じた結果からすれば、各契約者が買戻条件の確実に履行されるものと誤信して東京明治(被告人ら)に金員等を交付したことになると認められるものの、被告人両名が各契約者らを欺罔して当該金員等の交付を受ける意思のあつたことは本件全証拠によるもこれを認めるにたりる証拠がなく、すなわち詐欺罪の成立に必要な故意の存在が証明されず、従つて被告人らは無罪と考えるほかないのである。

二、別紙買戻条件付土地販売契約一覧表その六およびその七記載の各契約について

別紙買戻条件付土地販売契約一覧表その六およびその七記載の各契約は、被告人らが前記第四認定の〈特〉契約打切りの指示(ただし、その際交渉中のものは右指示後でも締結を許す。)を出した昭和四〇年二月二〇日以後に、野地弘一横浜支店長が締結した〈特〉契約と同種の契約であるところ、検察官は、被告人らは右打切りの指示後も支店長会議等で各支店長に再度〈特〉契約の締結方を指示し、かつ、野地支店長はこれに基づきしかも各契約ごとに被告人らに報告してその許可を得たうえで右各契約を結んだのであるから、これらについても被告人両名は詐欺の責任を免がれない旨主張し、(証拠略)によれば、昭和四〇年四月に入つてからも支店長会議等で〈特〉契約についてなんらかの発言ないし議論の行なわれたことを窺わせるメモ等が残つており、また、野地横浜支店長および被告人両名の検察官に対する各供述調書中には、右検察官の主張に相応する供述部分がある。

しかしながら、右野地横浜支店長および被告人両名は、公判段階においては従前の供述を完全に覆して、本件各契約は野地横浜支店長が独自に締結したものであり、被告人両名は全く関知していない旨証言または供述し、それはさておくとしても、次に述べるようにこれら昭和四〇年四月以降に締結された各契約は、東京明治として被告人両名が指示して行なわせた〈特〉契約とは異質とみられる点が多々存在する。すなわち、前記第四、二、(二)認定のとおり、本件各契約は、昭和四〇年三月以前に締結されたいわば本来の〈特〉契約とその契約内容に対比して目的物件の特定性が弱いこと、買戻金額に付した客の利益が当初計画の月二分五厘(年三割)という率と大幅に喰い違い、最高で月五分、最低で月一分と異常にばらついていること、買戻しまでの月数も二件は一二ヶ月であるが、一件は二ヶ月、その余の三件は三ヶ月と相互に大きく喰い違ううえ、極めて短期間のものがあることなど、昭和四〇年一月一六日ごろに被告人らが実施を決定した〈特〉契約の計画内容と極端な差異の存在することが認められる。さらに、昭和四〇年四月以降にこのような買戻条件付契約を締結したのは、被告人卜部につき有罪と認めた別紙買戻条件付土地販売契約一覧表その三記載の河村八郎京橋支店長と黒川臣との間の契約を除けば、全部横浜支店においてであること、しかも、本件各契約については、前記第四、二、(二)認定のように本社に対する書面での報告、売買契約書等の本社への送付、本社で作成した〈特〉契約に関する各一覧表への登載など、本社としてこれを把握していたことを窺わせるなんらの形跡も残つていないことなどの事実も認められる。してみると、これらの事実に、なお前記認定のように横浜支店は以前に本社に隠れて〈特〉契約と同一性質のいわゆる念書売買を支店ぐるみでしていたいわば前科のあることなどを総合して考えれば、本件各契約は野地横浜支店長ないし横浜支店が独自の判断により被告人らに無断で締結した右の旧来的な念書売買の一つではないかという疑問も、客観的にかなり根拠があるものといわなければならない。

要するに、別紙買戻条件付土地販売契約一覧表その六およびその七記載の各契約については、一方においてこれらが被告人らの指示に基づくことを裏付ける一応の証拠はあるものの、他方においてこれを否定する根拠となる証拠も多々存在し、従つて結局、被告人らの指示に基づくとの事実はいまだ合理的疑いを越えて証明されたということができないのである。すなわち、本件各契約については、本件全証拠によるもこれが被告人両名の行為と認めるにたりる証拠がないから、欺罔の有無など問うまでもなく、被告人両名はこれらの契約に関しては無罪というほかはない。

三、最後に、有罪と認めた訴因すなわち別紙買戻条件付土地販売契約一覧表その三記載の契約に関して一言触れておくと、本件契約は、前記「罪となるべき事実」認定のとおり、河村八郎京橋支店長から同支店の顧客である黒川臣との間で〈特〉契約であれば契約ができるので特例として特に許可して欲しい旨上申があり、昭和四〇年五月末から実質的に一人で経営にあたることになつた被告人卜部が、当時極度に資金不足に喘いでいた折から、その資金の一助となると考えて、これを許可し、右河村京橋支店長をして契約を締結せしめたというものであるところ、その当時の東京明治は、前記第三および第四認定のとおり、財政的および営業的に完全に崩壊寸前であり、とりわけ資金的な困窮度が激しく、支払手形の大半は書き替えのほかなく、昭和四〇年五月三一日にはいわば財布の中にある金にあたる出納が三千三百万円余の赤字となり、また兄弟会社の大阪明治はすでに倒産しているなど、東京明治もまもなく倒産に至ることがほとんど確実な状況にあつたことが客観的に明らかであるから、被告人卜部も本件契約については買戻条件の履行のできないことのほとんど確定的な認識があつたものと推認され、その意味で前記一の場合と異なり、同被告人に本件契約に関しては詐欺の故意のあつたことが肯認できるのである。

第六、以上の次第で、本件公訴事実のうち、被告人両名が共謀のうえ、または被告人卜部健が単独で、別紙買戻条件付土地販売契約一覧表その一、その二、その四、その五、その六およびその七記載の各契約者から土地売買契約による代金という名目で右各表記載のとおりそれぞれ現金、小切手等の交付を受けてこれを騙取したとの点については、その犯罪の証明がないことに帰するから、いずれも刑事訴訟法三三六条に従い、被告人廣川道夫に対し全部無罪の、被告人卜部健に対し右各事実について無罪の言渡をすべきものである。

よつて、主文のとおり判決する。

(別紙等略)

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